でゅを/ワイワイ☆ヤンヤヤンヤ


いとつみぶかき いとしごたちよ
─YOU, SINFUL AND DEAR CHILDREN─


1月のノデノラで初めて頒布した、白凰とWの同一人物CP風味小説の再録です。
上章→白凰さまとホワイトが食料品を買い込んで、部屋に一日中引き込もるおうちデートな話
下章→2人がイルミネーション見たり、大雪で遭難して謎の民家に辿り着いたりする話

今後の方針として、デュエマの同人誌はイベント後すぐにweb再録しつつ、同時並行で物理的な本をイベントや通販で頒布いたします!
(折角ならデータじゃなくモノとして持っておきたい、という方向けです)

こちらの本もまだ通販中ですので、お気軽にどうぞ~
※通販ページは以下URLから(A6文庫本 216p)
https://duwo2.booth.pm/items/6551159

初めて作った同人誌だったので、ものすごく思い入れのある物語です
白凰とW、相容れないにも程がある2人が同一人物なのって、何回考えてもヤバいですよね?
同一CPにおける鏡/硝子越しのキスが大好きなので、それが書けて大満足でした

完全に自己満なんですが、今回の小説のテーマとして「罪」や「罰」があったので、
タイトルの英訳(YOU, SINFUL AND DEAR CHILDREN)は新約聖書の「ヨハネの手紙1」の一節をベースにしています
 …You, dear children, are from God and have overcome them, because the one who is in you is greater than the one who is in the world. (1 John 4:4)

冒頭の「嗚呼…歓喜の歌、鳴り止まず!!!」は 「勝舞vs白凰 スーパーシークレット・ブック」内の「バイオレンス・エンジェル」宣伝文句にあった
「ヘブンズ・ゲートが呼んだ巨大ブロッカー軍で、敵を踏みつぶす!! 嗚呼…歓喜の歌、鳴り止まず!!!」 からモロ引用させていただきました。
敵からすれば絶望そのものなのに、美しく鳴り響く旋律…
この畏れ多さこそ、まさに白凰さまだ!ピッタリなキャッチコピー!と大はしゃぎしてました

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いとつみぶかき いとしごたちよ
─YOU, SINFUL AND DEAR CHILDREN─

※捏造設定多数
⦿食事の好みから体質まで多分に幻覚を含みます
⦿白凰さまとホワイトを、相互会話可能なタイプの二重人格として思う存分書いておりますので、ご注意ください(あくまで身体は一つです)
⦿不亞家の決闘者としてのWの確執が一旦解消されたSX後謎設定未来世界が舞台となっているので、あえてWの表記がアルファベットではなく「ホワイト」になっています

嗚呼…歓喜の歌、鳴り止まず!!!


上章 或いは白凰の原罪について

ぼくの日々は、大方が「枠」の中に収まる。
曜日ごとに定められた習い事。神殿での役割。光文明の守護者たる一族としての自覚。最強であることを規定された少年。無数の枠が重なり、範囲を狭め、ぼくという人間のシルエットを形作っていくのだ。
 だが、このフォーマットを打ち破る例外が、ぼくには二人いる。
 一人は、我がライバル、切札勝舞くん。彼はぼくが滅多に回さない火文明デッキの使い手である。あくまで俗説であり、正式な統計がとられているわけではないし、どこまでも定性的な話題ではあるが、プレイヤーと使用文明には共通点が多いことが大半だ。水文明の使い手であれば、力で押し通す流れより、ドローを重視した戦略的なゲーム展開を好む、といった具合に。その点、勝舞くん以上に火文明らしい決闘者を、ぼくは見たことがない。そしてきっと、これからも出逢えないだろう。感情の赴くまま、仲間を信じて未来へと駆け出す彼の姿は、鮮烈な火花そのものだ。守りばかりでつまらない、なんて彼に詰られたことのあるぼくには、彼のような視点や感性を携えることができない。真似ようとして真似るものでもないと、十分承知はしているが。いつだって、ここぞという時に彼は使命をやり遂げてみせる。ぼくの予想と想定を易々と飛び越えていく。知らない景色を見せてくれる。彼はぼくにとって、ある種のヒーローとも呼べた。
 そして、もう一人。勝舞くんが、旧き枠を打ち壊し、新たな枠を提示してくれる存在だとすれば、もう一人の彼は全く毛色が違う。彼はぼくにとっての、枠という概念そのものを歪めてしまうのだ。ぼくにとってなにが枠だったのか、しがらみだったのか、救いであったのか、拠り所であったのか。ありとあらゆる境界線を溶かしてしまう。ぼくの精神の裏側、月が決して地球には向けない片面のように、常に闇を纏った人格。

そう、我が悍ましくも尊き半身、ホワイトである。

無意識の深淵から、ぬるりと覚醒したとき、ぼくは先ず石造りの天井を見上げていた。天井を構成する、ランダムなタイルの配置。その表面の凹凸を、眺めるというわけでもなく、ただぼんやり見上げていた。視神経が獲得した情報を真面目に拾うことなく、緩やかに思考の線を辿る。昨日は一日中、決闘の研究会。明日は昼時からJDC関係の出張。今日は……八時から神殿が主催する大会への顔出し。
 目線だけを横に逸らす。ここは神殿に備えられたぼくの自室。そして窓の向こう側には、薄暗い空が広がっている。華奢な木枠を押し潰して、室内へ傾れ込みそうな分厚い雲。光は掠れ、大気は仄暗く透き通っていた。
 低血圧気味なぼくは、起床してから実際に動き回るまでに、いつもタイムラグがある。今日のように早起きをしたり、ベッドから離れたりするのはそう辛くないが、頭がきちんと働くまで、二十分ほどは時間を要する。この半分寝ぼけた状態で取り掛かった行為は、どれもこれもハッキリ覚えていられないし、どうにも身体が怠い。頭部から顎先、そして首筋を通って腰へと、血液が逃げ出すような、妙な錯覚がする。
 いや、これから神殿の庭で、地域大会が催されるのだ。四の五の言っている場合ではない。ぼくは冷えたフローリングの上を裸足で踏み締め、一番間近の窓を開け放った。秋の鋭利な風が、停滞していた部屋の空気を切り裂いていく。少しでも身体感覚のチューニングが早く済むよう、ぼくは瞼を閉じ、微細な粒子のゆらぎを肌で感じ取っていた。
「あー、ねみー……」
 不意に、声が聞こえる。便宜的に声、と表現しているが、それはぼくの鼓膜を震わす、一般的で物質的なものではない。ぼくの背後から降り注ぐ、概念的なエコーだ。にもかかわらず、その声色はひどく生々しく、存在の厚みを保持していた。
 分かりやすく不機嫌そうな唸りに、思わず苦笑する。ぼくとは違い、彼は——ホワイトは、明瞭に覚醒するまでに時間を要するタイプだ。彼が真っ先に起きた時には、ひとしきりベッドの上で悶絶している。ぐだぐだと、芋虫のように蠢いたのち、二度三度とベッドの縁から転がり落ちかけて、ようやく起床する。一旦まともに目覚めると、あとは比較的テキパキと朝支度を済ませられるようだ。起きてすぐはぼく、暫く経ったらホワイト、といった具合に、得意な場面で都合よく入れ替われたら。幾度そんな風に夢想したことか。しかし、どちらの自我が現実の舞台へ躍り出るか、手綱をぼくらが完全に握っているわけではない。大体は表へ行きたいと強く考えた方が、意思通りの結果を手にするが、時には裏側へ引っ込んだまま変われなかったり、逆に意図しないタイミングで交代したりする。このメカニズムは未だに解明できていない。
「くああー……」
「おはよう」
 ぼくも重たい瞼を擦りながら、隣人へ挨拶をする。
「おー」
 寝起きなのも相まってか、掠れた応答が返ってきた。朝は平素よりも際立ってぶっきらぼうな彼だが、それにしても語調に覇気がない。
「どうかした?」
「なんか……いつにも増してだりー。頭とか腕とか妙に重いんだよ」
 さて、至極当然なことではあるが、彼とぼくの肉体は同一である。ニューロンを駆け走る刺激から、カードを捲る指先まで、すべては共有されている。故に、彼が身体的な不調を唱えるということは、ぼく自身も同様の調子である、と単純に考えられる。確かに彼の言うとおり、普段よりも頭がぼうっとするかもしれない。比例グラフの如く、時間の経過と共に順調に目覚めるはずの身体も、どうしてか動かすことすら億劫だ。
「軽く風邪でも引いたかな……」
 血管が熱く収縮し、視界の中央でプリズムが舞い散る。この感覚は、あまり馴染みがない。
「なあ、おい」
「なに」
「ぼくがなに言っても怒んないって約束できるか」
 なんだって? これでは、怒られるようなことをぼくは今から話しますと、片手を高く挙げ、立派に宣言しているのと同義である。しかし親に叱咤されるのを恐れ、予防線を張るこどものような振る舞いは、どこか控えめで、彼らしくもない。文句が喉まで出かかったが、ひとまず口を閉ざし、彼の続く言葉を待った。
「すっげえだりーからよ」
「うん」
 すでに雲行きが怪しい。
「今日の予定は、ぜーんぶキャンセル!」
 ほら見たことか! 想定していた主張に、輪をかけて幼稚な提案だ。庭の小鳥が、か細く断片的な鳴き声を上げる。ぼくらのくだらないやり取りに、苦笑いしているみたいだ。だがここで頭ごなしに否定すれば、この上なく、それこそ秋の空模様以上に変わりやすい彼の機嫌がどうなることか。気まぐれに、意識の奥底へ引っ込んでしまうぐらいであれば、まだ可愛い方である。無理矢理表へ出た挙句、自暴自棄になるパターンもありうる。しっちゃかめっちゃかに散らされた部屋を何度見たことか。かといって、易々と我儘を受け流すのも如何なものだろう。考えあぐねて黙り込んでしまったぼくの、束の間の沈黙を、彼は「肯定」として承認した。
「案外アリだろ?」
「アリっていうか、アリエナイ」
「つれないこと言うなよ、萎えるだろーが」
 まずい。気まぐれメーターの針が、マイナスの方へ傾いたらしい。快か不快か。面白いかつまらないか。彼の究極的な原理は、この上なくシンプルである。ぼくは頬を緩やかに撫で上げる風を名残惜しく感じつつ、ベッドへと腰を下ろした。彼との会話に集中するためだ。そのまま上体を横に倒し、瞼を閉じる。自由奔放なもう一人の自分へ問いかけた。
「それじゃあ、きみの言うとおり、すべて予定を帳消しにしたら、なにをするの?」
「決まってんだろ、思う存分ゴロゴロしたり」
「したり」
「好き勝手ダラダラしたり、とかよぉ」
「どっちも同じじゃないか!」
 側頭部に、鈍い疼きを覚えた。脳がオーバーフローしているのかもしれない。
「全くもう、どうしてきみって、そうもだらしないんだろう……」
「てめー、ふざけたことぬかしてんじゃねえ。ぼくのどこに文句があんだよ!」
 まずい、心の中で留めたつもりの台詞であったが、彼相手に「胸中」などという領域は通用しないことを、うっかり失念していた。互いの思考を正確に読み合うことは出来ないが、大まかな傾向は感じ取ってしまうのだ。
「ハイハイ、ぼくだってゆっくり過ごしたいのは山々だよ。でも、決まりは守らなきゃ」
 いたって正論を述べたつもりだが、返ってきたのは乾いた嘲りだけだった。
 不意に、新しい音が部屋を訪れた。これまで存在していなかった音。ぼくらよりワントーンもツートーンも高い、少女の声。繰り返し、ぼくの名を呼んでいる。二重にも三重にも輪郭がぼやけた怠惰な思考回路が、徐々にクリアになっていく。
 ミミくんだ! ホワイトとの戯れに夢中になりすぎたせいで、状況の把握が遅れた。
「白凰さま? そろそろ集合のお時間ですのでお声がけしました。お支度はお済みですか?」
「ちょっ、ちょっと待ってくれっ」
 ぼくは慌てて立ちあがろうとしたが、同時に左ふくらはぎの筋肉が引き攣った。不自然な電気信号によりぼくは体勢を崩し、ベッドの上へ再び倒れ込んだ。
「ねえ!」
 思わず虚空に向かって吼える。ぼくの脳みその裏側で、高らかな哄笑が反響した。どうやら我が分身は、この混沌極まりない状況が愉しくてたまらないらしい。
「今のってきみだろ⁉」
「だったらなんだってんだ? あん?」
「なんだもなにも、どうして止めるんだ!」
「ハァ、てめーってよぉ、なんでもかんでもぼくのせいにするよな」
 あからさまに呆れた表情を浮かべるホワイトの顔が、意識の表面をよぎる。
「誰でもないてめー自身が、行きたくねえって顔してるから、わざわざ手助けしてやってんだろーが」
「ぼくはそんなコト頼んでいないよ!」
「へいへい、いつも白凰ちゃまはそう仰いますね〜」
「また人を小馬鹿にした言い方をして……」
 もう、ぼくの口からぼくが叫んでいるのか、それともホワイトがせせら笑っているのか、訳が分からない。どちらも正解かもしれないし、はたまた双方とも声になどならず、ただ頭の中で言葉をぶつけ合っているだけかもしれない。無我夢中で身を捩っていたせいだろうか。ぼくは弛んで波のように深みを増したシーツの合間で溺れかけていた。
「白凰さま? どうかされましたか?」
 扉一枚隔てた向こう側から、ミミくんの問いかけが届く。いかにもぼくのことを心配してくれている声色だ。彼女のことだから、なにかしらリアクションを返さなければ、部屋に突入してくる可能性も否めない。ホワイトの我儘に付き合っている場合ではないのだ。ぼくはこれから、頼まれていたイベントの主催側として参加しなければならない。そう、頼まれていたもの、約束していたもの、義務づけられたもの……。
「あーあ、なんてメンドクセーんだろっ!」
 ぼくは一瞬、どちらが放った暴言か判断できなかった。ぼくたちの声は瓜二つだ。同じ身体を共有し、同じ声帯を振るわせているわけなので、当然といえば当然なのだが。
「なあ、おい、今日のってぼくたちは決闘できないんだろ? なあってば」
 ホワイトの突き放すような口調には随分と慣れた。彼にとってはこれが通常運転なのだ。
「そうだね、カジュアルな親睦会みたいなものだし、あくまで主催サイドだから」
「つまり、ただのお飾りってこった。それじゃあ心配いらねーな」
 なんの心配? と聞き返したぼくの声は、意味のある周波数を生み出さなかった。ぼくの視界と自我が、一歩後ろへ下がる感覚がする。身体の主導権がホワイトへ移ったのだ。先程まで支配していたはずの身体は、ふわりと神経の糸を解かれ「もう一人のぼく」へ緩やかに溶け合った。シーツの大海から緩やかに浮上した彼──ホワイトが右の肩を、次に左の肩を気怠げに回した。入れ替わった直後には、多少の違和感が生じるのだ。
 張り詰めたミミくんの声が、再びぼくらを追い詰める。
「体調が優れないのかしら。白凰さま、大丈夫ですか?」
「ハハ、アイツ絶対来るぜ」
「すみません、お部屋に入ってもよろしいですか?」
 ほら! と嘲り笑いつつ、ホワイトは皺の寄ったパジャマを軽く払うと、わざとらしい咳払いを一つこぼしてみせた。途端、神妙な顔つきに切り替わる。
「ンン、いや、入らない方がいい。実は体調を崩したようでね」
「なんですって!」
 ホワイト、いや正しくはホワイトが成り切ったぼくの台詞すべての意図を振り切り、ミミくんは扉を力強く開け放った。与えられた運動エネルギーを持て余しているのか、真鍮色の扉が、まるで風に吹かれた折り紙のように揺れた。穴が開かなかっただけ、マシだろう。ミミくんはあっという間にぼくらと距離を縮め、俯いたホワイトの顔を遠慮がちに覗き込んだ。
「白凰さま……お身体は大丈夫ですか?」
 ホワイトは眉を顰め、なにかを呟こうとした。だが、すんでのところで留まり、苦しげに呑み込むような仕草を披露した。
「いや、多少気分が優れないだけだよ。心配させるような言い回しをしてすまない。この後は親睦会だったね。今行くよ……」
 そして億劫そうに上体を起こし、フローリングへ、のろりと足の裏を下ろした。力を込め立ち上がったと同時に、身体が前方へとつんのめる。すぐ側で様子を伺っていたミミくんが、目にも止まらぬ速さで彼の上半身を支えた。
「ちょっと! フラフラじゃないですか」
「起きたばかりだからだよ。気にしないでくれ」
 ミミくんの真摯な眼差しが、彼の潤んだ瞳を捉えた。よくもまあ、心にもない演技を貫き通せるものだ。諦観半分、関心半分といった心情でぼくは事の成り行きを見つめていた。
「……いや、少し正直に言ってもよいなら、身体を休めたいかな」
 ミミくんの視界には、沈痛な面持ちの白凰、すなわちぼくが映っているのだろうか。しかしそれは、限りなくぼくであり、果てしなくぼくではない存在なのだ。
「でも……このぼくが顔を出さないワケにはいかないよね」
 とどめと言わんばかりに、彼はぎこちなく口角を上げた。無辜の部外者に、すべてを委ねて。
「ミミくん?」
 ああ、なんて残酷なんだろう。彼はまるっきり分かっているのだ。ミミくんがぼくに対し、心から信頼を置いてくれていることを。ぼくの善良なる精神に、一片たりとも疑問など挟んでいないことを。ぼくの発言は真であり偽などあり得ないと、思い込んでいることを。ぼくの——ぼくの心と身体は、とっくに統一性を失い、壊れているというのに。外部から観測しうる「白凰」がどのような体裁なのか、彼は空恐ろしいほど冷めた目で捉えている。  しばらく間を開けて、ミミくんが発した返事は予想の、いや計算の範疇内だった。
ぼくらは見事、明朝までの自由と罪を手にした。

ほら、やってはいけない、と言われれば、かえって気になるものだろう。見るなと禁じられたものは大概姿を覗いてしまうし、行くなと止められれば足を踏み入れてしまう。カリギュラ効果だとか大層な名前が付いているようだが、これは至極、原始的な本能に近いとも思うのだ。この身が、遥かなる天から大地へと零れ落ちたその時から、抱え続けている病。だからこそ抗うことはできない。そうでなければ、ぼくがこうやって、彼と共に神殿を抜け出している理由など説明できないのだから。

ぼくは彼に導かれるまま、神殿の庭を抜け出し、裏山を軽やかな足取りで突き進んでいた。肉体の主導権は彼が握っていて、あくまでぼくは、それを朧げに眺めているだけの立場である。しかし、側から見ればそれはぼく、白凰が浮かれた調子でスキップをしていると受け取られる。それがぼくか、ホワイトか、といった区分は、ぼくらにとってはなによりも重い命題であり、第三者にとってはなによりも理解し難い奇問なのだ。平素であれば、衆目に晒される場で軽率な行動は取るな、と牽制しているところだ。しかし、奥深く鬱蒼とした森の中では、他人の視線というストッパーは役割を失っていたし、ぼくも小言を挟む気分にはなれなかった。
 一つの場所に留まることを苦手とするホワイトにとって、久々の散策はこの上なく愉快なようだ。神殿の自室から屋外へ、窓枠を跨いで逃げ出したときから、彼の鼻唄は止まない。ぼくも知らないメロディを次から次へと紡いでいる。足取りはこの上なく軽快だ。
「ねえ、無粋かもしれないが聞いてもいいかな」
「あん? てめーがそういう時は、なにがなんでも答えさせようとするだろ」
 彼にとって、ぼくは一体どのようなイメージなのだろうか。随分と粗雑で野暮な人物だと思われていやしないだろうか。
「へぇ、そう。分かっているなら教えてみろ。きみは一日中ゴロゴロだのダラダラだのしよう、と宣ったが、ならばどうして、当てもなく彷徨っているんだ」
 彼は歩みを緩めることなく、その辺の小枝を手折った。そして暴君の専制のごとく、乱暴に一筋振り下ろした。
「なんだよ、案外気になってんじゃねえか。ぼくたちの今日のご予定ってのがよぉ」
「そりゃあ、細かいこと、なにも聞かされていないから」
「はん、そう言えばそうだな」
 人が踏み鳴らしたことのない土壌には、名前も分からぬ草がのたうち、這いずり回っている。まるで舗装されていない地面は、足の裏に不規則な刺激を与え、どうにも疲労感が溜まる。
「黄昏ミミには、今日は部屋で寝てっから、誰も入って来んなって言っただろ?」
「うん、そうだね……」
 発言とは裏腹な現在の状況に、相槌のトーンが一段下がる。
「邪魔モンは除外された。なにをしたって構わない、サイコーの秘密基地ってわけだ。んで、朝から晩まで基地に引き篭もるんなら、それ相応の準備ってのが必要だろ」
「たとえば?」
「メシとか飲みモンとか。だから適当に買い出しに向かってるってわけだ」
 確かに彼の発案に従って、本当に今日を丸々一人で、もとい二人で過ごすのであれば、朝、昼、晩と三食分は必要になる。神殿の食堂から食材を拝借することも可能な一手ではあるが、他人に目撃される恐れがある。気分が優れず養生している筈のぼくが、冷蔵庫の中身をひっくり返しているシーンに、合理的な言い訳など考えつかない。外部で調達した方が、若干ではあるがリスクは抑えられるだろう。
「……第一、ぼくたちは具合が悪いから、致し方なしに休憩しよう、というのが始まりだろう。だのにどうして、こんな山の中を元気にハイキングしているんだ。別に食事なんて、一日ぐらい抜いたって構いやしない。やっぱり全部、きみの戯言だ。もう、馬鹿馬鹿しい」
「おいおい、そんな喚くなって」
ホワイトが、聞き分けのないこどもを躾けるように、ゆっくりと語る。
「風邪とかじゃなくて、自律神経やらなんやらの乱れだと思うぜ、この症状。ストレスからくる、心身の不調。ぼくもてめーも、最近スケジュールぎちぎちで、もうウンザリだろ。だから、こうやっておだやか~にリフレッシュするのが、一番の治療法だぜ、間違いなく!」
実に滑らかな弁論だ。こうやって調子に乗っているときのホワイトには、どうしようもなく腹が立つ。詭弁を崩すため、続けざまに攻撃しようとしたが、なにを言っても飄々と躱されるイメージしか浮かばず気が滅入った。
「ほらほら、もうどーせ、こんなとこまで来ちまったんだ。大人しく今日の計画を立てたほうが賢明だっての」
 悪魔がせせら笑う。ぼくは半ば投げやりになり、彼が意気揚々と話すアイデアに耳を傾け、時折口を挟んだ。
つらつらと、この後の行動プランを一緒になって勘案していると、ふと空恐ろしい疑惑に駆られる。ホワイトの稚拙なワガママに付き合っているようでいて、その実ぼく自身こそ、この不合理で、微かに非道徳的なシチュエーションを望んでいたのではないか、と。彼から差し伸ばされた手を、喜んで掴み取ったのは紛れもないぼく自身ではないのか、と。
 いや、一旦やめよう。こういった妄執の鎖は、巻き付いたが最後、身体中を締め上げてくる。くだらない。彼とぼくの根本原理は、あまりに相容れない。共生する上で妥協と協力は必須であるし、要請されているが、それまでだ。やめよう、こんなことを考えるのはやめよう。もはや神殿のイベントへ戻ることもできないのだ。今はただ、この奇怪な徘徊に身を委ねることとした。

所々、倒木や岩の転がった地帯もあったが、ホワイトは軽快に飛び越えていく。
スーツと革靴のままでは、あまりに「白凰」らしすぎると言われ、ぼくたちはセーターにジーンズ、スニーカーと比較的カジュアルな格好へ変装していた。金の長髪が剥き出しなのは目立つだろうと、帽子まで被せられた。クローゼットの奥の方から、この一式を引っ張り出してきた時には、思わず仰天した。ぼくと彼は、どちらもファッションに対して頓着しない点は共通している。昔から正装を着る機会が多かったので、半ば習慣と化し、結果としてぼくらのワードローブの大体はフォーマルなものだ。そして、ほとんどの衣服は彼とシェアされている。それこそアウターからアンダーウェアに至るまで。元々身体は一つなのだし、あえて区分する発想など、ぼくにも彼にもなかったのだ(どういった経緯だったかは失念したが、上記事情をミミくんが聞いた際には、微妙な表情を浮かべていた。彼女はなにを考えていたのだろう……)。
 こうしてぼくの知り得ぬ服を隠し置いていたということは、彼なりに文句の一つや二つがあったのだろうか、普段のぼくらとはかなりテイストが異なるし、これが彼の本来の好みだったのか、そうであれば今まで悪いことをした、と妙にドギマギしていたら、呆れた声色で貰い物だ、と返された。着こなし方もイマイチ分からないので、適当に放置していたが、今こそ変装用にピッタリだろうと説明され、安心したのは少し前のこと。 ついでに伝えとくと、てめーの私服のセンスが信じられねえからだ、とホワイトが呟いていたが、ぼくは彼が怯えるほど奇天烈な衣服を着用したことはない。アロハシャツなどは所有していたが、あれはごく一般的な部類だろう。ハワイでは正装として扱われていると聞くぐらいだ。彼は一体、どの服を指しているのだろうか。
 ともかく、凸凹とした地面をひたすら前進する彼の足元で、履き慣れないスニーカーは大活躍していた。足を踏み出せば踏み出すほど、頭上を常に覆っていた木々はみるみる姿を消し、視界が一層開けていく。
森を越え、降り立ったふもとの街は、ぼくらが普段生活している街から二、三区画離れた地域だった。なにか用事を足すならば、より大きな街へ向かうし、街内で事足りるのであれば、わざわざ無意味な外出はしない。つまり、ほどほどに近い街ほど、かえって詳細を知らなかったりするものである。電柱に記された住所から、おおまかな現在位置はなんとなく掴めたが、ひどく精度の悪い予想であった。ぼくにとっては、意識して降り立った事のない、馴染みの薄い街並みが広がっている。どことなく似通った、四角い箱が規則的に並ぶ住宅街のど真ん中を、彼は突っ切っているようだ。ぼくも知らない道を、何故彼は知っているのか。互いに隠し事など不可能な間柄である。物理的にも精神的にも。すると突然、ホワイトが奥へ引っ込んでしまった。ぼくは引き摺り出されるように表舞台へ飛び出し、自意識のスポットライトに照射された。
「ちょっと、いきなりなんなんだ?」
 応答なし。毎度のことではあるが、彼は極端である。自分のペースで捲し立てたかと思いきや、すっかり今のように沈黙してしまう。だが、ぼくも伊達に彼と長く過ごしていない。丁寧に説明されずとも、彼の思考のアウトラインは描ける。大方、暫く歩けばなにかしら食料品店が見つかるだろうと目論んだものの、方向感覚を失い、面倒になったのだろう。
「きみが知らないなら、ぼくだって分からないに決まってるじゃないか!」
 正当な批判が、怒号となって辺りに拡散する。民家の塀の上で、優雅にうたた寝をしていた野良猫が、全身の毛を逆立てて逃げ走っていった。まずい、裏で控えている人格として散々会話をしていたので、表に交代した自覚が足りなかった。ぼくはいまや、この身体の主責任者なのだ。不審者として通報されないよう、早足で先ほどのエリアから立ち去る。
 さて、幅員の広い道を選んでいけば、自然と街のメインストリートへ辿り着くものだ。鈍色の空から差し込む光はどこか霞んでいて、両眼に映る風景から現実感を奪っていた。平日の昼前ということも相まってか、エンジンの駆動音と信号機の歩行者用メロディぐらいしか、変化する音色がない。ちらほらと散歩する住民の姿を見かけるが、どのシルエットも蜃気楼のように薄っぺらく感じる。初めに迷い込んだ住宅街と変わらず人気はなく、交通量もまばらである。どこか覇気のない一帯だった。
 一瞥した限り、大通りでもガソリンスタンドとレストランぐらいしか建っていない。無駄に歩き回るより、いっそ誰か通行人に聞いた方が効率的だろうか。しかし、曲がりなりにも名と顔の知れ渡った自分自身である。相手に素性が露呈しては、巡り巡って神殿に情報が伝わるかもしれない。つい俯きがちになってしまう面をなんとか上げ、真っ直ぐな道路の遙か先を見やる。
「あの向こうのって、スーパーじゃねえの?」
 ぶっきらぼうな助言は、実に的確であった。数ブロック先に、どこかで耳にした覚えのある店名を掲げた看板が屹立している。チェーン展開のスーパーだろうか。あてもなく歩数を稼ぐ必要がなくなり、胸を撫で下ろした。
 近づいてみれば、なるほど、およそ巨大施設とは形容し難い、こぢんまりとした食料品店だ。自動ドアをくぐっても、品出しをする店員が何人か視界に入っただけで、客はほとんどいなかった。ぼくらへ注意を払う人物が少ないのは、喜ばしいことである。照明を抑えているのか店内は薄暗く、天井のスピーカーから溢れ出す陽気なBGMと、どこか不釣り合いだった。
「なにボーッと突っ立ってんだよ。カゴとれよ、カゴ! あとカートも忘れんなよ」
「ああっ、そうだね。スーパーってあまり来たことないから、勝手がよく分からなくて」
「なんとなく分かるもんだろ。よし、あとはぼくに代われ!」
 カートは上下にカゴを乗せられるよう設計されており、彼は両方のスペースへ緑色の箱を置いた。二人とはいえ、胃袋は単一である。カゴは一つで十分だろうと止めようとしたが、以前勝舞くんに「白凰はよく食べるよなあ」と笑われたことを思い起こした。ぼくは自身が大食漢だとは認識していないが、ひょっとするとカゴ二つ分ぐらいは、ぺろりと平らげてしまうのかもしれない。
「どんどん行くから、食いたいのがあったら言え」
 彼は左足をカートにひっかけ、右足で地面をリズミカルにタップした。スケーターと同じ要領で、推進力を得てカードが前へ前へと滑り出していく。 「もう、こどもじゃないんだから」
「誰も気にやしねえっての」
 車輪が、切り裂くような悲鳴を上げた。左手だけで器用に商品を掴み取り、カゴへ投げ入れていく。その間、スピードは全く緩めずに。出来合いのコロッケ、カットフルーツの詰め合わせ、ドレッシングも付属したローストビーフ。次から次へと、食品が宙を舞う。一見すると無造作な選別作業に映るが、実際にはぼくと彼が比較的好んでいるものばかりが対象となっていた。同じ舌、同じ味蕾を共有しているので、食事の嗜好も同様となるはすだが、ぼくらの好みは僅かに異なる。比較的彼の方が、甘味をお気に入りとしているようだった。
「ちなみにこれって、誰のお財布から支払われるつもりかな」
「ぼくは太っ腹だからよぉ、ココは全額出してやる」
 実にありがたく、寛大な提案ではあるが、ぼくと彼の個人口座は分たれていない。ぼく自身はともかく、彼が羽目を外した出費をしないよう、監視するためである。ただ、念のため述べておくと彼自身の金銭感覚がズレているわけでも、物欲が平均より大きいわけでもない。決闘の勝ち負けといった概念的なものを重視する一方で、物質的な所有欲をあまり持ち合わせていないところは、むしろぼくと似ていた。彼の精神状態のデフォルトは、いわゆる双極性の一種に近い。大人しくしているかと思うと、周囲が驚愕するような大胆な振る舞いを、突拍子もなく行う。その抑止力が、ぼくなのだ。
「つまり、ぼく持ちってことでもあるね」
「視点を変えれば、景色も変わるってこった」
 屁理屈を捏ねる相手には、こちらも好き勝手言って構わないだろう。
「ねえ、お菓子のコーナーに行こう」
「へーへー。どーせ煎餅だろ」
 彼が鼻でぼくの要望を笑う。側から見れば、いきなり一人笑いを始めた少年として捉えられかねない。かなり際どいアクションだったが、ぼくたちの一挙手一投足をまじまじと観察している人間などいやしないし、例え他人の目があろうと彼は意に介しないと、容易に想像できた。
「三袋ぐらいストックがあったろ。まだ買い足すのかよ?」
「あれは緊急時用なんだ」
「どんだけ食うんだか……」
 天井からぶら下がった、各列の案内板を睨み、カートを転がしていく。曲がり角に差し掛かるたびに、無駄にエッジを抉るように方向転換した。
「一々カーブを攻めなくてもいいよ! ここはレース場じゃないんだから」
「些細な場面でも手を抜かないのが、ぼくの美学なんだよ」
 全くもって初耳である。表に出ている人格が、気が付いた際に部屋の掃除といった簡単な家事は行う決まりになっているが、彼はまるで手伝わない。この間だって、テーブルの上に溢した紅茶がそのままになっていて、ぼくが気付いた時には、既に立派な柄へと成長していた。真っ白な天板だから、くれぐれも汚れには気を付けろと口煩く伝えているのに。手を抜けるところは徹底的に無視し、ここぞという勝負事には全身全霊をかける。
それが彼の行動理論だろう。つまり、今の発言は真っ赤な嘘、虚偽申告だ。
 先ほどまで見ていた肉の加工品コーナーから離れれば、いつのまにか周りの景色は、カラフルなスナックで埋め尽くされていた。蛍光イエローの目に痛いパッケージを彼がカゴへ放り投げたが、中身は不明だ。隣の列へ移ると、今度はお煎餅や飴といったコーナーが広がっている。
「ぼくには全部同じに見えんだけどよお、どれをご所望なんだ?」
「えっとね」
 この店は小規模だからか、おせんべいの取り揃えもそう多くはない。縦四段、横二つ。合計八種類のラインナップだ。最上段のものは、どちらも幾度か食べた経験がある。その下の段も同じく。続いて三段目……右手の商品は、まさにぼくの部屋、キャビネットの底で眠っているおせんべいと瓜二つだ。一方、左手の袋は、全く見覚えがなかった。水色のドットが規則的に配置され、爽やかな印象を受ける。オーソドックスな醤油の味付けだ。ぼくの集中力が一点に向かっていることに気が付いたのか、ホワイトがポップな色取りのそれを手に取った。ひっくり返して、裏側のラベルを確認してもらう。所謂大手メーカーとは違う、まるで聞いたことのない生産元だ。今日はいつもと趣向の違うシチュエーションに巻き込まれているのだから、冒険したっていい。ぼくがあえて語らずとも、彼は手中のおせんべいを、カゴで待ち構える他の仲間たちのもとへ送り届けた。残る段には、ファミリーサイズやパーティーサイズと呼称されるような、大型袋が並んでいる。
「いちばん下の棚」
「あん?」
「どっちも入れてくれ」
 暫し間を置いて、ホワイトが大袈裟なジェスチャーを繰り出した。両手の掌を天へ向け、顔の横へ持ち上げ、肩をすくめている。
「おいおい、ぼくの目が正常なら、ありゃ超特大サイズだぜ。ぼくたちだけで食べきれんのかよ」
「今日食べ切るわけじゃないよ」
「じゃあいつ食うんだ」
「例えば……」
 いつ、確かにいつだろう。これは明らかに、一人用ではない。量として考えれば、ぼくにとっては大した物量ではないが、なんとなく、本当になんとなく気分が合わない。折角封を切るならば、誰かと共有したいかもしれない。誰かと、密封された菓子を、等しい速度で流れる時間を、同じ酸素濃度の空間を。誰かと一緒の日なら、嫌というほど一緒の日なら……。
 ぼくは、ほとんど反射的に答えていた。自分でもどうして、こんな彼に歩み寄るような、弱気で軟弱な台詞を宣ったのか、理解に苦しむ。でも、口についてしまった。
「今日みたいな日。たまにありえるかもしれない、ヘンテコな日」
 彼が息を呑む感覚が、微細な空気の震えで伝わった。なにか言葉を続けようとしているが、意味を成す音には変化せず、口腔へ霧散していく。
「……ヘンなヤツ!」
 ねえ、それってぼくのこと? それともキミ自身のこと? はたまた二人のこと? ぼくの問いかけは大河に合流した小川のように形を崩して、消えていった。

さて、目当ての品を無事に確保できたことで、ぼくはすでに満足していた。しかし、ぼくの身体は尚も通路を徘徊し、同じ棚を行ったり来たり、忙しなかった。静止したかと思うと、また前へ後ろへと動き出す。どうやら、現段階の収穫物では不服のようだ。
「もう散々仕入れたんじゃないか」
「なんか、メインが不在なカンジなんだよな」
 彼は口を尖らせ、低くため息を吐いた。上下のカゴを顎で指し示す。二つの箱から今にも溢れんばかりに、食料品類が詰め込まれていた。客観的に述べるのであれば「十分すぎるほど十分」である。この会計を担当するレジ店員は、よもやこの総量が、たった一つの肉体へ収まるとは、想像だにしないだろう。
「惣菜とか菓子類は充実してるけどよお、もっとこう、主役級の」
「んー、おかずじゃなくて、主食に近いものってことかな。そうだ、ピザはどう?」
「なるほど、ピザねえ」
 一瞬ホワイトが押し黙ったので、はて彼はこういったジャンキーな味付けを存外愛していなかったか、と疑問に思った。ホワイトは夜な夜な小腹が減ったと唸っては、神殿の他のメンバーを無理矢理に引き連れて、近隣のファストフードへ赴き、惣菜を持ち帰っていると以前耳にしたのだ。初めて聞いた際には、自分の利益のために周囲を巻き込む身勝手さへ不快感を覚え、拳を握りしめた。しかし、なんやかんや寝付けない者同士でポテトやらナゲットやらを突っつきあって、丁度よい憩いの場と化しているので、どうか気にしないで欲しい、と周囲からかえって宥められてしまったのだ。結局面と向かって指摘できず、今に至る。これは思い出したくもない話だった。
 彼が喉をクツクツと鳴らす。
「てめーにしてはけっこー良いアイデアじゃねえか」
 思わず安心を覚えた。彼の機嫌のシーソーを不快な方へ傾けずに済んだことに、ではない。ぼくは彼の保護者ではないし、ましてや下僕でもない。ホワイトを崇め奉っているわけでも、勿論ない。では、ぼくはなにに安堵したのだろう。奇妙な違和感。だがそれを追いかける前に、彼が受け取った嗅覚の刺激が、ぼくへと漂ってきた。
「へー、案外スーパーでも売ってるもんなんだな」
 目前のケースには、平べったい格納容器に押し込められたピザたちが陳列している。作りたて! と、手描きのポップが表すとおり、透明ビニールの部分が湯気で曇っていた。なんだか、苦しげにぼくらを見上げているみたいだ。マルゲリータに照り焼きチキンマヨネーズといったメジャーなものから、パイナップルが乗っかったもの、生クリームと苺がトッピングされたものまで売っている。こんな日は冒険、と半ば自暴自棄に張り切ったものの、主役で味を外したら、目も当てられぬ精神的ショックを受けかねない。ぼくらは打ち合わせることもなく、マルゲリータと照り焼きチキンをケースから引き上げた。今は出来たてほやほやであっても、持って帰る頃には冷めてしまうだろうな、とほんの少し心配したが、すぐに杞憂だと分かった。ボタンを押せばお湯が沸くケトルや、新品同然の電子レンジといった家電は、自室に一通り揃えられているからだ。中々大きな電子レンジだったから、ひょっとするとカットせずにそのまま温め直せるかもしれなかった。ぼくがわざわざ料理をする機会は、まずない。神殿でも自宅でも、それは変わらない。専ら食事に関しては頂く専門であるから、キッチン家電など無用の長物でしかないと思っていたが、よもや助けられるとは。
「脂っこいピザときたら、それを流せる炭酸ってのがお決まりだろ」
 彼は踵を返して、ビバレッジ類の列へ突入した。厚手のセーターやデニムを着込んでいても、このエリアだけ他より体感温度が随分と下がる。大中小様々なボトルがぼくらの指名を待ち望んでいた。普段は紅茶や水を飲むので、サイケデリックな色合いの液体は、ホラー映画に出てくるエイリアンの血のようで、どこか不気味だった。彼は冷気をたっぷり浴びた二リットル容器を、嬉々として持ち上げた。赤と紫、そして黒が入り混じったような、禍々しい色彩を放っている。その奇妙なジュースが舌の上で弾けたら、一体どんな味がするのだろうか。ぼくにはとんと検討がつかない。夜な夜な開催されるジャンクパーティーで、彼がたらふく満喫しているようだから、ぼくの身体は知っているのだ。ただ、ぼく自身が直接知覚していないだけ。口角を釣り上げた彼の様子を感じるに、味の保証はされているみたいだ。
 隣の区画へ曲がると、ガラス瓶がずらりとぼくらの方を見つめていた。覗き込んでみると、透明な長方形の中に、琥珀色の海が閉じこめられている。店内の照明が射し込んで、表面が不規則に揺らめいた。先ほどとは打って変わり、一気に重々しい雰囲気だ。それもそのはず、ここは本来であれば、ぼくらがまじまじと見物する場ではない。生まれてから二十年が経たなければ、これらの瓶の中身を呑むことは叶わない。それぐらいの、必要最低限な法知識は彼も備えているはずではあるが、妙に食い入るように物色していた。特に葡萄酒のあたりへ、熱烈な視線を送っている。
「詳しいことはあえて聞かないでおくけど、分かっているよね? いくら破壊的イノベーションが好きなきみでも、看過できないよ。もう少しだけ待てば堂々と買えるのだから、無理をしなくたっていいのに。第一、どうして未成年が飲酒すべきではないと定められているのかって、理由がきちんとあるんだからね。筋の通った決まりなんだよ、アルコールってのは元来人体にとっては毒素で、肝臓が……」
「分かった分かった! ご講演、痛み入るぜ」
 スパークリングワインへ伸ばしかけた手を、彼は渋々、本当に渋々といった様子で引っ込めた。目標物を失った右手を、所在なさげに振り翳している。
「小言が多いし、長いんだよな……」
「誰が多くさせてるのかな」
 やべっ、聞こえてたか、だなんて、今更なことを彼が呟く。どうやら前提となる説明を、より詳細に、より丁寧に行わねばならないらしい。今度たっぷり時間を設けることとしよう。とにかく、今日一日を引き篭もって過ごすには十分な買い出しが出来た。この店もこれから混み合ってくる可能性がある、長居は不要だろう。いよいよ撤収だ。

会計の際、メディアに露出する際の「白凰」からは、随分と距離を置いた風貌も相まってか、店員からの注目は然程浴びずに済んだ。レジ袋は必要ですか、と聞かれて、素直にハイ、と答えたホワイトの挙動があまりに珍しく、ぼくは意識の裏側で、ひとしきり笑ってしまった。だって、あの彼が! 誰に対しても不遜な態度を崩さない彼が、世間の常識に合わせた行動をとっている。明日は雪でも降るだろうか。身が凍えるほどの寒さではないものの、今日の風はどこか底の知れない静けさを抱えていたから、あり得ないことはないかもしれない、とぼんやり感じた。
 彼が軽く舌打ちをした。目前の店員には悟られぬほど、小さく小さく。間違いなくぼくに対する苛立ちであった。どうしてだろうか、ムキになっている様子もたまらなくおかしくって、またしてもぼくは声を上げた。
 往路と全く同じルートをなぞり、神殿の庭を通り過ぎ、自室の窓枠を飛び越える。レジ袋を卓上へ放り投げて、ようやくぼくは一息つくことができた。意識的に、鼻腔から酸素を取り入れる。肺が大きく膨らみ、服を押し上げた。見知らぬ街を彷徨し、僅かに抱いていた焦燥感が希釈されていく。ぼくとホワイトの私物だけが散らばる部屋には、匂いがない。自分自身の匂いは、一番身近なあまり、かえって香りが分からなくなるのかもしれない。
 小一時間経ってもいまだに着慣れない服を脱いでいく。露出した背中に、凍えた空気がぴたりと張り付いた。部屋着、といっても襟が付いておりシャツに近い形状だが、それを代わりに身に纏えば、いくらかぬくもりを得ることができた。野外から吹き込む、曇り空の息遣い。
「窓、閉めたほうがいいかなあ」
 着替えている間に、いつのまにかぼくへと交代していた。とっ散らかったセーターやジーンズを畳む。洗濯物は、神殿内のランドリーで一括に処理されている。毎朝毎昼毎晩と回しているから、今から持ち運んでもすぐに洗ってもらえるだろうが、急ぐ理由も特段あるまい。
「いいんじゃねえの、開けっぱで」
「そう、ならこのまま」
 レースのカーテンが、白くはためいている。向こうの灰色がかった世界が、透けて見えた。炭酸飲料を、ほとんど空っぽの冷蔵庫へ仕舞い込む。他に痛んだり味が劣化したりしそうな食材はない。冷蔵庫内の電気が、痙攣したように消灯と点灯を反復した。ろくすっぽ使用したことのなかった家電だが、ようやく役目を果たせたとばかりに喜んでいるのかもしれない。はたまた、よくもここまで蔑ろにしてくれたものだと、怒りを表明しているのかもしれない。
 ここのところは特に決闘漬けで、運動という運動をしていなかったからか、適度な疲労感に全身が浸っていた。深く考えるわけでもなく、寝台の縁へと座る。ちらりと見やったぼくより縦幅のある、大層な壁時計の短針は、まだてっぺんまで到達していない。途端、ぼくの周りだけ重力が増したかのように、身体のあちこちがベッドへと引き寄せられた。腕が、肩が、頭が、しなやかに反発する生地へ、吸い込まれていく。投げやられた自分の腕が視界に入った。シーツの光沢よりも一段生白く、どこか生気のないパーツ。
「昼寝か? ま、起きる頃にはちょうど昼飯どきってかんじだろーな」
 彼の声に、うん、と頷いたつもりではあった。しかし、実際に相手へ伝わるレベルの意思表示が達成できたかは怪しい。既にぼくは、半ば意識を手放していた。朝から晩まで予定を詰め込まれることが常であるから、昼寝などといった悠長な安らぎは、あまり経験がない。眠りに適した態勢を模索していく中で、自然とぼくの身体は丸まっていった。原初の海にて夢を見る、胎児のように。目を閉じれば、肌をくすぐる風の微かなうねりさえ、如実に感じ取れる。温かい、寒い、温かい、さむい、あたたかい。

温かなまどろみの中へ沈んでいく。
 瞼の裏では、言語化の難しい不定形の光が点滅している。以前読んだ本には、毛細血管やそこを流れる赤血球の形が、透けて見えているのではないか、と記載されていた。そう言われてみれば、確かにこんな形なのかもしれない、となんとなく納得できる。しかし、次から次へと外殻が剥がれ、結合し、離散していく虹色の閃光には、正確な形状など初めから無いようにも感じた。端から端へ絶え間なく通り過ぎていく明かり。この景色は人体に隠されたプラネタリウムだ。生まれ、死に、そしてまた生まれる星々をぼくは眺めている。
 スパークが萎み、無限に広がるたびに、どういうわけだか、過ぎ去りし思い出がちらつく。まるでフィルムの映写のように、休む間もなくシーンが切り替わる。
 あたたかな日々、豪奢なダイニング、眩い肉親の微笑。気持ちの良い祝福、暗転、侵入者、血飛沫、明転、暗転。
 ああ、そうだ。ガルドが現れ、無数の悲劇を生み、ぼくたちはあまりに過酷で残酷な争いに巻き込まれた。幾つもの涙が地へ堕ち、数多の犠牲が世界を埋め尽くした。
だが——諦めぬ者たちの意志は、確かな未来を築いた。絶望の果てには、どんな少年漫画よりも劇的な世界が広がっていた。すべての忌々しき物語は、やがて収束へ向かっていったのだ。伏線はすべて回収された。取り残された未練はない。見事な最終回が到来した。

だのに、一つだけ、決定的な異常が発生していた。それも、ぼくにだけ。

いつかミミくんが言っていた。どうして白凰さまばかり、辛い目に……。こればかりは、ぼくにも答えが導き出せない。だが今回のイベントばかりは、幸や不幸、喜怒哀楽のどれにも分類できないだろう。二極の天秤では量れない物事の方が、世の中には多く溢れているのだ。否定しがたく、確かに。

パチリ、チカリ。微かに星が爆発した。脳裏の映写機が、とある場面を投影する。
背の高い老人と、髪の長いこども。二人は真っ白な部屋で、椅子に腰掛け、互いに向き合っていた。どこか胡散臭いほどに、潔癖な白で浄化された室内。巨大なモニターに映されたMRI画像。真っ二つにされた脳が、老人のマウス操作に合わせて形を変える。モノクロなのに、臓物だと一目で理解できるのは何故だろう。ホイールの回転と、時折老人が手元のカルテを捲る音が、静寂の中で際立つ。ぼくはじっと、誰かの脳を見つめた。トーキー映画に出てくる、不定形の醜悪な実験生物みたい。今にも口を開け、医用モニターを容易く粉々に噛み砕いて、こちら側へ襲いかかってきそうだ。
「白ちゃん、落ち着いて聞いておくれ」
 老人が、少年へ正面から声をかける。やさしく、やわらかく、やんわりと。相手を刺激しないよう、計算された仕草だった。
「ぼくはいたって、落ち着いていますよ」
 少年はにこやかに答えた。その笑みもまた、相手の意図を拾い適応しようとする、捏造された動作だった。
「あなたこそ、いきなり呼び出して一体どうされたんですか。まあ、いつもの検査でしょうけど、Dr.」
問いかけられた老人は、苦渋の呻きを上げた。表情を隠す、眼鏡の分厚いレンズが鈍く反射する。そこに映るのは、ただのこどもだ。過酷な運命と戦い抜いた、ただのこども。青年へと成長を遂げようとしている、ただの、一人のこども。
 カルテ、少年、そして歪んだ中枢器官を順繰りに見やると、やがて諦めたように、大きく老人は息を吐いた。深刻な重みを孕んだその合図に、少年は顔を強張らせた。
「これから伝える内容は、おぬしにとって、随分と辛い話になるだろう。だが、このまま無知を通すわけにもいくまい」
 おもむろに立ち上がり、老人は戸棚から二つのティーカップを出した。簡易的なティーバッグが放り込まれ、ケトルから湯が注がれる。準備に際し、陶器が奏でる小さな衝突の音色を、少年は不思議そうに聞いていた。
「おぬしには色々あったからの、一件が終わった後も、定期的に検査をしているじゃろ」
「はい」
 少年に背を向け、老人は端に設けられた机上で、茶のセットを続けた。ほのかに、清々しいハーブの香りが漂う。裏腹に、じわりじわりと張り詰め、空間を縛る緊張の糸。
「良いニュースを伝えよう」
 膝の上で両方の拳を握りしめていた少年へ、つるりとしたティーカップが差し出された。特筆すべき装飾もない、ごく一般的な茶器だ。少年はおずおずと手のひらで包み、受け取った。一連の動きは、まるで手錠をかけられる罪人のようだった。老人も、先ほどまで腰かけていたチェアーへ舞い戻る。
「白ちゃんの身体は、いたって健康そのものじゃ。血液検査の値も、実に問題なし。初めのころは少々不安定な要素もあったが、もう問題なかろー」
「それなら良かった」
 不穏な雰囲気を感じ取っていた少年も、安泰な報告に対し安堵した様子だった。
「さて、こういう時は決まって、悪いニュースというのも聞かねばならん。それも、良い知らせをひっくり返してしまうような事実を」
 老人は、自身の発言を噛み締めるように、一口茶を啜った。
「あの、それは、どういう……」
 手の中に収めたまま、じっと携えていた少年のティーカップの中で、赤褐色の液体が震えた。小包から滲み、透明な液を蝕む色素。着実に、確実に、なにかが崩壊していく。
「正常性が、翻って異常性へと変貌するやもしれん、ということだ」
「Dr. あなたのおっしゃっていることが、よく」
「今から丁寧に説明するから、ちいっと待て」
 この二人は誰なのだろう。ぼくは一体、誰の風景を、プライベートな会話を覗き込んでいるのだろう。
「ずばり、白ちゃん、ワシに隠しごとがあるじゃろ」
 老人が事もなげに、しかし真っすぐに放った刃は、少年の芯を見事に切り裂いたらしい。少年が初めて、焦りの感情を露わにした。
「どういう意味ですか。ぼくはあなたの希望通りに診療所を訪れ、こうして面談までしている。質問されれば、基本どんなことにも答えていたでしょう」
「まさにその通り。ただ、一点だけ不都合な秘密を抱えておる。ワシはその最後の患部を切開せねば、おぬしへ正確な診断を下せないのだ」 「フフ、なにも、隠し立てなんて」
 少年は紅茶を口に含んだ。真っ白なカウンセリングルームが映り込んだ液面は、一瞬でバランスを喪失し、単なる飲料として喉へ流し込まれた。
「ぼくからなにを聞き出したいのかは分かりませんが、どうぞ、いかなる問いでも」
「ならば単刀直入にいこう。白ちゃん、おぬしは数か月経っても、狂暴な一面……Wとしての感覚が抜けないと言っていたな」
「W、ですか」
 ぴくりとも表情を変えず、少年は首肯した。
「感情が昂ぶり、自分が自分でなくなるような場面があると。時たま記憶の断絶があるとも」
「確かに、そんな頃もありましたね」
「ショックな出来事も多かったしのう。無理に自我を弄られた後遺症だろうと、アレコレ治療法を試している内に、Wの片鱗は消え、すっかり白ちゃんは元の自分を取り戻した。溢されたインクが拭われ、真っ新な白紙へ再び蘇ったと、そう信じこんでいたが」
 老人が、ティーカップの中身を一気に飲み干した。荒々しくデスクへ置かれた陶器が、金切り声を上げる。
「ここじゃよ。おぬしの奥底で膿む、不具合は」
 少年の柳眉が、僅かに顰められた。
「白ちゃんはもう心配いらないと話していたが、ここ最近、勝舞やミミ、ジョージ達から個別に相談を受けてな。白ちゃんが今でも、様子の違う時があると」
「みんなが? 心配しすぎなんですよ、優しい人たちだから」
ティーカップを端へ追いやりながら、少年が呟く。やけに息の詰まるお茶会だ
。 「問い詰めるとはぐらかされるし、一見すると白ちゃんにしか思えないが、どこか別の人間のような雰囲気、態度の日があると、不安がっていたのじゃ。まるでWにそっくりだから、どうにも気にかかると。それも、三人同時に示し合わせて相談するならまだしも、バラバラに、別々のエピソードを引っ提げて来るもんだから、ワシは確信した。白ちゃんの心には、Wの爪跡がいまだに残っている」
 鉛筆の持ち手側で後頭部を掻きつつ、老人は悩ましげに言葉を続けた。
「じゃがのー、ガルドが消え去り随分と経った今、Wが残存する理由が見当たらん。もはやWと呼称するよりは、不亞家の呪縛から解放され、改めて構築、ないしは顕現した人格・ホワイトとして認識した方が、実態に即しているのかもしれん、と思うに至った」
「ホワイト……」
 少年が、その響きを咥内で転がす。老人はデスクに積まれた書籍の山から、一冊のファイルを取り出した。
「ワシは当初、白ちゃんの病態を、Dissociative identity disorder ——いわゆる解離性同一症の一形態に近いと考えていた。強烈な心的外傷経験、解離性健忘、統一性を失った自意識、どれをとっても典型的じゃ」
 少年の左瞼が、俄かに痙攣する。小さく呼吸を整えると、手持ち無沙汰に指先をこすり合わせた。青白く突き走る血管が、花束のように手の甲で広がる。
「ぼくの知らないところで、とっても素敵な推測をされていたんですね」
 老人の目線が、幾つも挟み込まれた付箋を辿り、目的の文章を捉えた。
「初期段階では、白ちゃんとW、いやホワイトと思われる状態の間で、記憶の共有に偏りも見られた。白ちゃんはホワイトが為したことを覚えていないが、逆は成立しない。ホワイトは白ちゃんの行動をほとんど把握しているようじゃった。このアンバランスな関係は、解離性同一症としてはよくある症例ではある。一つの人格では耐えきれないからこそ、自我が砕け、負荷を分散しようとする試みじゃからな。本来の人格は記憶が断片的になり、後に表出した人格は代わりにすべてを俯瞰する。この枠組みを当てはめるならば、元の人格は白ちゃん、後に分裂した人格はホワイトとなり、齟齬はない。まず間違いなく、この見立てで治療プロセスを考えていけば問題ないと思ったのじゃ……あくまで、当初は」
 老人は、思わずといった様子で、こめかみに手をあてた。
「ところが、それぞれから聞く白ちゃんの症状が、日に日に変化していった。話を統合してみると、どうにも不可解な点が多くての。まず、数時間、もしくは数分の間隔で頻繁に人格交代が起こっている、それも連日で。ここまでの急激な交代は、稀なケースじゃ。次に、交代人格がW——ホワイトしか確認できないこと。この病状における人格とは実に曖昧なもので、数の増減、肩書の変化が常に起こる。じゃが、いつまで経っても白ちゃんにはWらしき人格しか見当たらない。相互に会話が可能な状況も、相当にイレギュラーじゃ。しかも常態化している。最後に……白ちゃんとホワイトで、記憶のズレがなくなった。一致してしまったのじゃ。白ちゃんもホワイトが体験した事象を、きちんと把握している。これは大問題での、記憶と自我が一貫した連続性を失うことが中核となる症状なのに、記憶の歪みは是正され、アイデンティティだけが分離したままとなる」
「つまりDr.は、ぼくをどう診断されたんですか」
 少年は純真な声色で問いかけ、老人を見上げた。落ち着き払ったその姿は、自論に狼狽える老人とは対照的だ。
「つまり、白ちゃんは医学的に分類できる病気には罹患していない。代わりに……特異的危機に瀕しているのじゃ。常識と科学の範疇外で発生したトラブル。我々ではどう対処すべきか見当もつかん」
 少年のほっそりとした指を、手を老人が力強く握り、包み込んだ。そうでもしないと舞い、逃げてしまう蝶を閉じ込めるような動きだ。
「ホワイトが一体どういうメカニズムで、おぬしの意識に巣食っているのか、それはきっと、ワシには……いや、他のどんな者でも不可能じゃろう。じゃが、皆で策を練ることはできる。まずはホワイトの症状を、きちっと教えておくれ。周囲からの観察だけでは分からないこともある」
「待ってください、もうぼくの心には、誰も……誰もいませんよ。ぼくはぼくです」
「今更シラを切るな。大概、おぬしのことだから、治療を進めてもホワイトが消えていないことを周囲が知れば、仲間に迷惑をかけるだろうと思い込んで、黙っているのじゃろ」
 出口の方向へ体を捩っていた少年の、微細な抵抗が止んだ。
「皆、おぬしが気を遣うほど弱くない。また、愚かでもない。いい加減、真っ向から対応せねばならんぞ」
「……Dr. ぼく……」
 一度は老人へ向けられた視線は、すぐにフロアへと落とされた。目標物が見定まらず彷徨う眼は、揺れる心情を如実に表している。
「怖がる必要などない。ほら、話せることから話してみなさい」
「……病人扱いの次は、狂人呼ばわりかよ、なあ!」」
 戦慄いていた少年の肩は、震えを止めていた。急変した態度に、老人は目を丸くする。
 予備動作なしで立ち上がったかと思うと、自身が座していたチェアーを左足で蹴り飛ばした。支柱を吹き飛ばされ、空中分解したパイプの丸椅子が壁面へ叩きつけられる。ぽつりぽつりとローテンポで会話が交わされていた先ほどの空間とは、まるで別の世界へ部屋ごとシフトしたみたいだ。殺伐とした対立が、二人の間へ横たわる。
「おぬしは、ホワイトか!」
「だったらなんだってんだよ、ああ⁉ てめーらがビビるって白凰がうるせーから引っ込んでやってたのに、アレコレうるせーっての! ぼくを異常者みたいに言うな、すっこんでろゴミ!」
 大人しくカウンセリングの対象となっていた、あの少年と本当に同一人物なのだろうか。両目は血走り、全身で荒々しく呼吸をしている。手負いの獣と似た凶暴性を、微塵も隠そうとしていない。少年はティーカップを掴み取ると、その場で手を離した。当然、陶器は冷え切った床へと身を投げ、無数の破片となって飛び散った。物質の崩壊する音は、劈く悲鳴と同質だ。閉じ込められていた液体が、少年と老人の足元を濡らしている。

これは誰の記憶なのだ? この診察室はどこだ? これはいつの出来事だ?

大きく肩を上下させ、抑えきれぬ憤懣で全身を震わせている少年。その顔は、ひどくぼくに似ていて、しかしぼくが決して表出できない想いを迸らせていた。

「やめろ、やめろ、やめてくれっ!」  悲痛な咆哮だ。  全身が、震えている。呼吸が忙しなく、短い周期でリピートした。 恐る恐る、うなじへ手を伸ばす。冷たく汗ばみ、湿っていた。そこでぼくはようやく、冒頭の絶叫は自分のものであったこと、自身の悲鳴で目を覚ましたこと、すべてが現実であることを実感した。

そうだ、ぼくはすべてが終わった後から、Dr.の元へ通っていて……勝舞くんが戻ってきて、ぼくが神殿でコーチングを始めるようになってからもそれは変わらなくて……。ガルドとの因縁は断ち切られ、呪いの象徴であったWも時間の経過と共に消滅するはずであった。だが悪しき心は独立性を保ち、変わらず精神の半分に息づいた。不亞家の決闘者としてのWではなく、引き裂かれた自己のホワイトとして、尚も存在し続けた。

これが、ぼくが抱えた決定的な異常の正体だ。

澄まし顔の壁時計が、低く鐘を鳴らし、正午を知らせる。たかだか二十分にも満たないうたた寝であったが、ひどく濃厚なフラッシュバックだった。まだ、心臓がうるさい。血液の熱い潮流が、耳の裏で激しく音を立てる。深刻な身体反応とは反対に、腹部はコミカルな鳴き声を上げた。思い返してみれば、朝からなにも口にしていない。水分補給ぐらいはしたが、固形物のまるで入っていない胃腸が、食事を求めて蠢いた。
「なあ、いい加減腹減ったっての。はやく食おう」
 彼が、ぼくへ次なる動作を催促する。刺々しい言葉の先っちょさえ、今は特に気にならなかった。
「そうだね、うん、そうだ……ブランチにしよう」
 全速で走り切った後のように、息はまだ乱れていた。だが、暫く深呼吸をし、騒つく胸を掌で押さえてやれば、徐々に嵐は弱まっていった。
 立ち上がり、卓上に散在した食品と対峙する。フランクフルト、シーザーサラダ、ポテトフライ、おでん、ロールケーキ、ポテトチップス、えびのフリット、おせんべい、その他あれやこれやそれ。実に多種多様だ。一言でまとめ上げるのであれば、カオス。ビッグバンが起こり、外側の世界へ無限に放たれる前の、はじまりの宇宙もこんな状態だったのかもしれない。
「選択肢って、ありすぎても悩むものだね」
「まず、ピザは確定だからな」
 本日のMVPには、真っ先に特等席が用意された。となれば、主役とセットで購入した炭酸飲料も、自然とブランチメンバーのリストへ名を連ねる。ピザは洋風だから、一緒に食べるのも同じテイストのものがいいかな、いや案外和風な惣菜と合わせても悪くないだろう、と、参加者が増え続け、結果としてまとまりのないメニューになった。
 ピザや他の食材を電子レンジへ放り込む。そうだ、マイクロ波が仕事をしてくれている間に、プレートやフォークを用意しよう。パーティー用のプラスチック製のものだが、どうしても買えとホワイトが煩かったのだ。売られていたままのパックでも食べられないことはないが、雰囲気が出ないとひとしきりごねたていた。スナック類や、冷えたままでも問題ないおかずをお皿に載せていけば、随分と華やかな印象になった。
 冷蔵庫の戸を開け、巨体を誇るペットボトル容器を抱え持つ。相対的に小ぶりなグラスへ、優しく内容物を移せば、微細な泡が小気味良く爆ぜた。気の抜けた拍手にも聞こえる。やおら始まった宴を祝う、歓びの歌。そろりとガラスの縁へ口付ける。指先で傾きを生み出せば、強烈なメロディが唇に触れた。砂糖よりもずっと直接的な甘露の味わい。なるほど、彼が癖になっているのも分かるかもしれない。
「準備完了だな」
 ケケケ、と、イマドキ聞かないぐらい典型的な笑い方。どこぞの童話に出てくる魔女や、主人公を誑かす悪魔にしか許されないオノマトペだ。
 さて、テーブルの上は完璧な状態に整った。早速、普段より怠惰な食事に取り掛かろうと思ったが、彼が慌てたように交代をせがんだ。
「急にどうしたの?」
「バッカ、ただお行儀よく食うわけねえだろ。ピザあり、炭酸あり、その他諸々あり、とくればよぉ」
 彼は一目散に、椅子と食卓を結んだ延長線上にある、黒い物体へと駆け寄った。冷蔵庫といった家電と同じく、部屋を振り分けられた時から備え付けられている大型の液晶テレビだ。他の部屋へお邪魔したことはないので比較のしようがないが、中々大きなサイズなのではないか、と個人的には感じている。定期的に編成されている決闘の大会や、天気予報を見るぐらいにしか現状としては使いこなせていない。
「見たい番組でもあったのかい」
「いや、地上波とかじゃなくて、映画だよ! 定番ってやつだろ、こういうの」
 確かに、映画鑑賞をしながらジャンキーな食事を摂るというお決まりの行動は、観念として持ち合わせている。片手で足りる回数ぐらいしか映画館には向かったことがないが、ひどく朧げな記憶が間違っていなければ、ポップコーンやらチュロスなどが販売されていた。人は、それだけでも十分愉快な映像だとしても、さらに重ねて美食という悦楽を頬張りたいらしい。強欲なものだ、誰も彼も、ぼくらも。
 とにかく、ほとんどの時間、真っ暗な画面を表示させているので、鎮座したテレビに対し、なんとなく勿体無いような気がしていた。今日はようやく、立派なインチ数が意味を持つようだ。
「おい、リモコンどこだ?」
「下の棚に仕舞っていたと思うんだけれども」
「見当たらねー。あ、奥にぶっ飛んでるな」
 最近ろくに電源を点けてすらいなかったので、リモコンの定位置も覚束なかった。彼が手元のスティックのボタンを何度か押すと、ディスプレイが目まぐるしく切り替わる。長方形のサムネイルが、画面の上から下まで等間隔に整列していた。ちらほらと、聞き覚えのあるタイトルが書き記されている。
「なんだいコレ。こんな機能があったの? どこを今押したんだい?」
「うっそだろ! てめーってホントさあ……」
 ホワイトが仰け反った。
「オトモダチの切札勝舞だって、これの話してただろ。月額でいくらか払うと、映画やらなにやら、借りなくても見られるってサービスだっての」
 勝舞くんが? 突然友人の名が出たので、詳しく聞いてみたが、まったくピンと来ない。どうやら神殿全体で団体契約を行っているらしく、この建物内であればどの端末でも視聴可能だそうだ。まるでぼくだけが、遥か歴史の彼方からタイムスリップしてきた古代人のようだ。
「あん時っててめーが表で話してなかったか?」
「うーん、ハッキリ思い出せないなあ……」
 こういった流れは、特段珍しいものではない。生活に支障が出ないよう、二人でちぐはぐな平生を共有する内に、どちらの記憶だったのか曖昧になることは、ままある。まして、裏側で息を潜めている人格も、表の世界での出来事を知覚できるぼくらは、互いの垣根が低かった。
「食の好みといい、じじくせー……」
「ばっちり聞こえてるからね!」
「ワザとだよ。それじゃあ、トーシロのオマエに、ぼくが鑑賞方法ってのを教えてやる」
 ホワイトが慣れた手つきで端末を操る。あっという間に、フルスクリーンで映像が流れ出した。精悍な顔付きの俳優が、アメリカ訛りの英語で女優に語りかける。短い会話を交わした後、突如として銃撃戦が始まった。
「コレってなんていう作品?」
「なんだっけか」
 お互いに適当なものである。
「まあ、暫く見て面白かったら確認すりゃいいだろ」
「それもそうだね」
 リモコンをソファに放り投げ、彼はリラックスモードに突入した。左手には炭酸飲料がなみなみと注がれたグラス。右手には具が端っこから溢れ落ちそうなピザ。曰く、攻守ともに完璧な体勢らしい。手始めに三角形に切断された生地に齧り付く。次に、舌に纏わりつくソースにジュースをぶつけ、味覚をリセットした。
 目前で繰り広げられるハリウッド映画は、ノンストップでぼくらに冒険物語を提供してくれた。ロケ地はかの有名なバカンス地のようだ。潮風が、悠久なる旧市街地を吹き抜けていく。石畳の坂道を主人公たちが駆け上がる。四方を取り囲む仇敵の手下を見事に蹴り飛ばす。テレビに対して斜め四十五度に顔を向けていたホワイトも、ストーリーが展開するにつれ、真正面に身体を組み直した。爆発する謎の施設、ヘリコプターから現れるミステリアスな女性、大袈裟で大仰な格闘戦、相手には百発百中なのに、味方には一切当たらない奇跡の銃弾。挙げ句の果てには、地球規模の強力なパルスを放出し、家庭のお掃除ロボットから米軍の中枢コンピュータまで、どんな電子機器でも制御不能に陥れられる最新兵器まで登場した! 主演の俳優が苦闘の末、渦中の精密極まりない兵器を奪い返す。しかし、突如画面外から走り出してきた飼い犬のゴールデンレトリバーが、主人公へじゃれついた。宥めている内に、最終兵器をおもちゃと勘違いした忠犬が、手のひらサイズのそれを噛み加え、どこかへ逃げ出してしまう。いやいや、今の犬はどこから来たのだ。世界の命運がかかっているときに、ペットとのんきに遊んではいられないだろう。もっと責任を持って死守して欲しかった。漠然と感じてはいたが、この映画は真面目に鑑賞するものではないようだと、確信が増していく。
「初めに、主人公の元カノがMI6の諜報員兼FBI捜査官兼CIA職員って自己紹介したあたりで、ぼくはとっくにB級だって気付いたけどな」
「でも、アクション映画ってそんなものかなあって思って」
「整合性の崩壊とアクション映画は同義語じゃねえ」
 ぼくたちの予想を、良くも悪くも上回ったり下回ったり、トンチキなギミックが小休憩を挟むことなく襲いかかってきた。X軸方向に来るかな、と構えているとY軸へ飛び抜けていき、それではと防御を固めたらばZ軸から飛来してくる。制御不能なモンスターに振り回されている気分だったが、途中からはかえって爽快ですらあった。
 見終えた頃には、グラスの中の炭酸ガスは静まり返っていた。

所謂王道のアクション映画でスタートを切ったので、二本目は全く異なる趣のものが望ましいように感じた。甘味の後には塩味、苦味の後には旨味といった具合に。今度はぼくに決定権が委ねられた。先ほどの彼の操作を思い出しながら、見よう見まねでカーソルを右へ、下へ、縦横無尽に動かしてみる。どのサムネイルも興味を惹くが、最後の一押しとなる決め手に欠けた。これは重厚なサスペンスといったところだろうか。悪くはないが、今の気分にはどこかそぐわない。これは、あらすじを読む限りラブロマンスか。楽しみ方が分からないジャンルなので、自動的にパス。これはコメディ。これはミステリー。これはSF。なにかが違う、違う、違う。
 ふと、一つの矩形に視線が絡め取られた。周囲の映画やドラマは、色彩豊かに画面を演出し、役者を最大限に活用し、華麗にフォントを加工し、視聴者へ全力で訴求している。この作品を見よ、再生マークをクリックせよ、と。騒々しく、ひっくり返したおもちゃ箱よりも乱雑なリストの中で、その映画はぽつんと佇んでいた。帰り道を忘れた幼な子のように、ただひっそりと。サムネイルに収められているのは、寂れて朽ち果てたコンクリートの建物だけだ。か細く、引っ掻いたような筆跡のタイトル。思わず決定ボタンを親指の先で押し込んでいた。
「全然聞いたことねえやつだ」
「ぼくも」
「おいおい、大丈夫かよ」
「少し見て、イケそうなら見続ければいい。ダメそうなら別のに変更しよう」
「それもそーだな」
 甚だしいデジャヴに襲われる。やはりお互いに適当なものである。読み込み中のマークが画面に浮かんでいる間に、空になったグラスへジュースを補充した。先ほどまでの腑抜けた炭酸は見る影もなく、活発に泡が生成されている。テーブルへ戻る頃には、ちょうど本編が開始していた。
「おー、これも洋画か」
 グルーヴ感たっぷりな、勢い重視の前作とは異なり、今度の作品は実に静かな造りだった。情熱的で、僅かに哀愁の漂う異国の言葉。英語でもなければフランス語でもない。これはスペインの映画だ。意識して、耳を傾けてみる。中南米で使用されているエスパニョールではなく、本土で話されるカステジャーノだ。
 どうやら映画風に仕上げられたドキュメンタリーらしい。スペインと言われ、真っ先にイメージするような快活さは正反対の作風だった。画面は灰色がかっていて、どの演者も深刻な表情をしていた。映画の題材とするには、エンターテイメント性に欠けていると評されそうな、スペインの社会問題が主軸に置かれている。字幕を設定することもできたが、ぼくもホワイトも、リスニングぐらいであれば問題ない。むしろ、現地の人々が彼ら本来の言語で訴える生々しさを、直接受け止めたくなったのだ。再生し始めてすぐには、薄暗くてかなわないと文句を述べていたホワイトも、中盤からはすっかりのめり込んで鑑賞しているようだった。

暫く惚けていたが、画面が暗転し、映画の音声が止んだことで、意識を揺り戻された。一定時間操作が入力されないと、自動的にオフモードへ移行するようだ。卓上で寝そべっていたリモコンを回収し、適当にボタンへ触れる。たちまち明度の高い光線が、液晶から溢れ出した。あっという間に映像を見終えていたらしい。
 持ち帰った時には綺麗な円を描いていたピザは、見るも無惨な形に成り果てている。中途半端に残った最後のピースを口へ放り込んだ。温かいうちの方が本領を発揮する味わいだが、多少冷えても、それはそれで悪くない。
 二本も立て続けに映画を流せば、それなりに時計の針も進む。どちらも上映時間百二十分超えの大作であったから、尚更だ。ぼくらの網膜に照りつく明かりがあまりに眩いので気付かなかったが、とっくに太陽は沈んでいた。カーテンすら閉め忘れた窓の向こう側、千切れた雲の合間で、青白く月影が滲んでいる。
 この時間になっても、ぼくの要望通り、誰一人として様子を見に来なかった。自分から申し伝えた手前、当然のことではある。身勝手な我儘を聞き入れてくれた友人たちへの感謝と、一握りの淋しさ、そして仄暗い高揚感が、ぼくの肌にまとわりつき、薄い層を編み出していた。
「色々言いたいことはあるが、リラックスはできたね」
「なら、ぼくの計画通りだな。感謝しろよ」
「すぐ調子に乗るんだから。とにかく、お腹いっぱいだよ」
 久しぶりによく働いた液晶の電源を落とす。くたびれたように、光源は眠り込んでしまった。刹那、室内を完全なる闇が支配した。部屋の電気も点けずに過ごしていたので、原始の夜が訪れたのだ。
 昼ごろの重々しく鬱々とした雲が嘘のように、今は透き通り、薄く長く揺蕩っている。おかげで、ベールの向こう側にいる女王と星々が、鈍く、しかし爛々とぼくらを見つめているのをはっきりと感じた。
 神殿の中でも奥まった箇所に位置するぼくの部屋へは、人々の会話や、廊下を駆け抜ける足音すら中々届かない。時間帯から考えれば、イベントが恙なく終了し、皆で撤収作業でも行なっている頃合いだろう。機材の片付け、参加者の誘導、諸々の事務仕事など、やるべきことはたんまりとある。だが同時に、徹底した静寂が一帯に沈澱していた。庭園の薔薇、その肉厚な花びらたちが互いに擦れ合う音色すら認識できる。まるで、密やかに交わされる睦言のようだ。広大な敷地、入れ替わり立ち替わりに動き回る人々。気配のない他者。リアリティの欠如した空間だ、いやなほどに。冷ややかな夜に、全身が馴染んでいく。か細い己の呼吸のみが、実在性の乏しい自室の中でただ一つ、生々しく残響した。  もはやなにも映さなくなった、真っ黒な四角の箱。そのつるりとした表面に、誰かがいる。こちらをじっと見据える二つの瞳。闇の到来を待ち望んでいたと言わんばかりに、煌々と浮かび上がっていた。
「いや、まだ物足りないはずだぜ」
 シルエットの口角が、歪に吊り上がる。左右非対称に、片側だけで微笑む癖。ぼくとまったく同じ顔なのに、まるで異なる筋肉の収縮と弛緩。  あっという間に、表層意識の奥底へ吸い込まれた。回転扉のように、ぼくと彼の主観が入れ替わる。今日はいつにも増して交代頻度が多いし、間隔が狭い。
 ホワイトはゆらりと幽鬼の如く立ち上がり、遅々と、しかし確実な足取りで、壁沿いの棚へと向かった。遠い遠い星の瞬きが、室内の物体の形状を朧げに浮かび上がらせているとはいえ、あまりに頼りない道しるべである。ぼくにはすべてが暗闇へと溶け込んで見えた。進むべき道などとうに知っていると言わんばかりに、一切の躊躇なく目的の座標へと辿り着く彼。まるで陰翳の中でこそ、ようやっと息ができる生きものみたいだ。
「まだ寝るには早えーだろ」
 彼が収納棚から下ろしたのは、カードのストレージだった。朝に抜け出したまま形を残したベッドへ、ケースが放物線を描いて飛び込んでいく。ぼくの所持しているデッキと、彼が使用しているデッキのほとんどが、シーツの上に寝そべった。
「これ見てみろよ」
ホワイトは眼球越しに、一組の束を嬉々として見せつけてきた。彼のデッキはあらかた承知しているつもりだが、見覚えのない内容だ。いつの間にか身体のコントロールはぼくへ移行していた。渡された未知のデッキを、一枚一枚確認していく。
「新しく組んだのかい?」
「たまにゃー面白いかと思ったんだよ」
「へえ、これはピン刺しなのか」
なるほど、デッキの構築を行いたいらしい。光文明を主体とする点は共通しているので、気まぐれにこうして構成をチェックし、意見を交わすことは多かった。なにより、同一の脳を共有している身である。自分自身の反省でもなく、まったくの他人からのアドバイスでもない奇特な関係性が、かえって程良いのだ。ピザだ映画だとはしゃいでいたホワイトだったが、やはり決闘が一等のお気に入りなのだろう。それはぼくも同様であるが。思い返してみると、今日のホワイトは常に上機嫌だった。
「はっ、てめーだってたっぷり楽しんだだろ?」
 見透かしたように乾いた冷笑。その通りだ、物理的にも精神的にも、随分と冒険をした。これまで足を運ばず、きっとこれからも機会など無いだろうと思っていた街へ行った。しかも、自分たちだけで買い物までしてしまった。突発的にデッキケースが壊れただとか、そういった時にショップに顔を出して購入をした経験はある。しかし、食料品という日々を支える基幹的な分野で、栄養面や体裁といった縛りを傍に置き、舌と心の踊るがままに選んだのは初めてだった。神殿からスパイのように抜け出すのも初めてだったし、勿論誰にも悟られぬよう自室へ帰還するミッションも初めてだ。
 映画を鑑賞している間など、実に不可思議な体感であった。最初に流したシネマの際には、あたかも二重にスクリーンを挟んでいるように感じていた。薄型の液晶モニターという第一のフィルター。そしてホワイトという第二のフィルター。二つの膜をすり抜けた、淡い光。それは時に柔らかく屈折し、揺らめき、ぼやける。ぼくが受け取る煌めきのすべては、彼の眼を通過したものだった。ある意味、わざわざシアターへ足を運ばずとも、毎日が上映会に近しいと喩えて差し支えないだろう。
こうして振り返るまでもなく、今日という日は異常値だ。起床してすぐ調子が優れなかったのも、彼から差し伸ばされた手を拒否できなかったのも、寒々しい曇り空の下、ぼくの心臓は脈打ち、血液の潮流は熱く迸っていたのも!
 要約しようにもしきれない体験談ではあるが、どうにかこうにか一言一言に、多重のメタファーを託けて挑戦するならば「友人との逃避行」だろうか。
 友人、という括りにホワイトが入るかどうかは一度判断を保留しよう。零から百まで信頼のおける人物かと問われれば、小首を傾げざるを得ない。それがホワイトである。極悪非道、血も涙もない、というほど極端な性質ではないが、聖人君子からも程遠い。無邪気に戯れる純真性と、そこから由来する凶暴性、確固たる軸として彼を貫く冷酷さ。これがホワイトをホワイトたらしめる、構成要素の一部だ。緊迫感と敵対心で張り詰めた関係性。友人と呼ぶには、少しばかし油断ならない。それでは、他にもっと適切な代名詞はなにか。腐れ縁か、片割れか、家族か、兄弟か、はたまた——。
 この問いは、あまりに複雑すぎる。答えはきっと簡勁なのに。だからこそ、一旦は彼を友人として仮定しよう。彼という存在そのものが、ぼくにとっては未知数である。これ以上不確実なパーツが増えていくと、方程式が崩壊してしまうから。兎にも角にも、衝動的に執り行われた、半身たる友人との逃避行は、濃密な時間であった。それはまだ、現在進行形で継続している。

(いや、少し正直に言ってもよいなら、身体を休めたいかな)
 彼がミミくんに放った言葉は嘘だと、初めは憤っていた。頭が重たかったのも、ちょっとした動作すら気怠かったのも、確かに事実ではある。だが、ずっと以前から神殿の連絡ボードにて、赤ペンで強調されていたイベントを欠席するのに値するほどの不具合ではなかった。今朝の調子であれば、多少の無理をしても特段問題なかっただろう。そう、ほんのばかし自分の身体の悲鳴から、目を逸らしても。
 いつ頃からだろうか。平気な顔で人を欺く彼へのわだかまりが、憐憫へと変化していったのは。頭ごなしに否定する必要などはじめからなかった。体感の問題とはいえ、気分が優れないのは本当だった。程度の表現が大袈裟なだけで、安静にしたいという要望は、まるっきりの虚言ではなかった。決闘者として、体調管理は基礎中の基礎、前提である。これしきの条件すらクリアできない自分など、許容できるはずもない。そんな頑ななぼくが、ほんの一滴だけ溢した気持ち。誰に伝えるでもなく、ただ自身へ呟いた願い。行く先を失った幼稚さを、ホワイトが掬い上げてくれたのだ。道化を装い、彼がなによりも忌み嫌う「白凰の真似」までして! 
 ああ、どうしてもっと早く、真正面から認めてあげられなかったのだろう。そうだ、彼はいつも必死に喚き立てていた。自分は白凰ではないと、同一視するなと全身で泣きじゃくっていた。激昂への導火線が人一倍太く短い性質ではあったが、特段この同一性の領分となると、もはや彼自身の制御からも離れ、感情の噴出が止められなかった。

「ぼくは白凰じゃない、ぼくは白凰じゃない、ぼくは白凰なんかじゃない!」

台本のように、幾度となく強制される叫声。同様にスクリプトをなぞり、反復される返答は決まって「あたしにとっては白凰さまだわ」。これ以上に残酷な劇などあるまい。当事者たるホワイトからすれば、なににおいても優先される命題なのだ。肉体という文脈でも、精神という切り口でも揺らぐ、それこそ影のような自我。たとい他者の理解という、最も無責任で無条件にうずくまれる寝床を得られずとも、彼は月夜に吠えた。ぼくはホワイトだ、ホワイトなんだ。
 それでも、実に哀しいことではあるが、人には目に見えないものが見えない。数式で丸裸にできる、物理学の賜物しか信仰できない。平穏な日々と地続きな普遍性しか受け入れられない。ホワイトはその点で、どうしようもなく異常値であった。多数者からの、同情という名の抱擁は期待できない。一体、地球のどこに、彼の嘆きへ真に寄り添える人間がいるのだろう。代わりに彼は、自らの刃を研ぎ澄ます他になかった。出来るだけ鋭く、痛々しく。触れ合う他者を跳ね除け、傷付けることでしか、彼は己を立証できなかった。
 定期公演のやり取りは、回数にしたがって洗練されていった。

(あなたは白凰さまなんです)
(変なものに取り憑かれているだけ)
(きみは白凰くんだ、これまでも、これからも)
(どんな状態だって白凰でしかないんだ)
(大丈夫、きっと元の白凰さまに戻ります)
(また、あの悍ましい心に)
(どうしてこうも可哀想な目に遭われるのか)
(暫くすれば落ち着くと、せめて祈ろう)

「うるさい、うるさい、うるさいっ! 二度と間違えるなっ! ぼくは白凰なんかじゃない、別の人間なんだ! ぼくはおかしくなんかない、てめーらがおかしいんだよ! どうして分からないんだ……」
 おお、またホワイトが絶叫している。いえいえ、それは白凰さまです。
 いつも通りの応酬に、観客は飽いていた。無論、それは数十回、数百回と上演を支えてきた演者たちにとってもだった。とうとう耐えかねたホワイトは、ついに暴れ出した。とある、関係者のみを招待したプライベート大会で、ちょっかいをかけてきたスタッフと大乱闘になったのだ。とはいっても、ホワイトによる一方的な蹂躙として終結したようだが。すべてが伝聞系なのは、ぼくには一切の記憶と記録が残っていないからである。初めに絡んできた、相手の言動に非があったこと。そして非公開の私的なイベントであったこと。諸々の要因が歯車のごとく噛み合い、この紛擾自体は有耶無耶にされた。大会後に、周囲からの接し方が妙によそよそしい時期があったので、気にかかりホワイトへ何気なく話しかけた。そこで大雑把な事の顛末を知り得たわけである。
 具体的に、どういった大会で、どういった人間が集まり、どのような侮辱を受け、どのように報復したのか。なにもかも、ぼくには分からない。日頃の苛立ちなど特別隠さず、大っぴらに発言する彼が、あえて濁して伝えてきた。その場に居合わせた者、経緯を聞いた者、誰もが口を噤み、ぼくへよそよそしい視線を投げかける中、彼だけが控えめにも真実を告げてくれた。それだけで十分である。

以降、彼の奥底で煮え立つ激情は、周知の事実となった。おまけに、ぼくとホワイトを「もう片方」と誤認することは、最上級のタブーとなった。一緒くたにするな、とホワイトが訴えていた頃には、まるで深刻に捉えられなかった事案なのに、意図しないきっかけで本懐は達成された。古来よりの定理だが、やはり大衆とは身勝手なものである。今度は、こちらが引け目を感じるほどに怯えられてしまった。大らかな白凰なのか、気性の荒いホワイトなのか。恐怖に慄き、強張った視線がぼくらを縛る。まるで、爆弾処理班に解除されているような気分だ。
 あまりに印象的だったので、今でも時折思い出すエピソードがある。よく晴れた昼下がりのテラス席、ぼくは微睡みの中にいた。神殿の庭に設けられたチェアーは、屋外用なのも相まって少しばかし固かったが、春の陽気の前では瑣末な問題だった。確かあの日は、立て込んだ用事の合間に、仮眠を取ろうとしていたのだったか。うとうとと朗らかな日光を浴びていると、辺りから話し声が聞こえた。ぼくを取り囲むようにぐるりと、ボリュームを抑えた会話が飛び交う。具体的に誰の声かは検討がつかないが、どこかで聞き覚えのあるトーンだ。神殿の関係者は相当な人数に及ぶので、正直なところ全員のプロフィールを把握できているわけではない。顔を確認したところでなんの意味もなさないとは分かりながらも、ぼくは緩やかに瞼を持ち上げた。その時の、皆の表情といったら! 砂漠で眠りこくるライオンの側を、恐る恐る通過しようと試みたが、最も接近した瞬間に猛獣が目覚めてしまった隊商のようだった。無数の眼差しが、ぼくの面持ちを無遠慮に探る。
 意識が浮上して暫く、彼らの過度に萎縮した様相の意味が掴めなかった。どうしてみな、後退りしてぼくを見るのだろう。どうしてみな、一言も発さないのだろう。あたかも、はじめの音を決めかねているように。
 身を捩った拍子に、顔へ被さってきた髪を払い除けた。なんとはなしに、そのまま手櫛を通してみる。うなじの後ろ、普段であれば髪留めがあるはずの場所には、なにもない。引っかかることなく、指がすり抜けていく。そこでようやく、てんでバラバラだったピースが正しい形を成した。なるほど、どうやらぼくは昼寝をするにあたり髪を解いていたらしい。無造作に下された長髪、目を閉じ、足を組んで眠りこくっている……。それが白凰なのかホワイトなのか、彼らも判別に悩んだのだろう。実際、ぼくが表舞台に立つ際には、髪は結う場合が多いし、反対にホワイトは面倒くさがって髪をまとめない。だが、お互いに相談して取り決めたような約束事でもない。単に習慣が異なっているだけである。なので、ぼくが髪を下ろしたままで過ごすこともあれば、ホワイトが髪を括っていることも勿論ある。あまり重要な差異ではない、と本人たちは認識していたが、周囲にとっては貴重な判断材料の一つらしい。
 唇を、「あ」と「お」の間の形にして固まっている人々へ、ぼくはなるべく柔和に笑んだ。
「みんな、ぼくになにか用かな」
 天へ向いていた足先も、地面へこれみよがしに着地させてみせる。自他共に認める事実として、ホワイトの足癖はかなり悪い。気に食わないことがあると、その辺に転がった手頃なものを蹴り飛ばしてしまう。剣が鞘へ納まったのを見届け、彼らの警戒はようやく解かれた。
「は、白凰さまでしたか」
「すみません、おやすみになられているのが珍しくって」
 口々に、必死な弁明。ぼくはもう一人と間違われても、思うところはあるが取り立てて腹は立たない。勿論、暴力を振るったりなどしない。彼らが慌てふためく必要など、まるっきりないのに。あまりにびくつくものだから、つい意地悪な問いかけをしてしまった。
「ふふ、ホワイトかと思ってビックリした?」
 図星、と言わんばかりに、全員がフリーズした。不自然な静止ののち、再びドタバタと狼狽えた。
「ま、まさか、滅相もありません」
「我々は、初めから白凰さまだと」
 困惑、焦燥、憂慮、畏怖、嫌悪。断りもなく、一方的な評価が注がれる。獅子にでもなった気分だと茶化したが、訂正しよう。もっとずっと、言葉にするのも憚られるような、異形の化物に成り果てたみたいだ。およそ、同じ人間に対するコミュニケーションなど成立しえなかった。
「やっぱり、皆にとって彼は恐ろしいよね」
 口にするつもりではなかったが、するりと感想が抜けて出ていった。
「いえ、決してそういったわけでは……」
「ホワイト様も、ご立派な決闘者です」
「ええ、白凰様とはまた違った闘い方をなされる。攻撃的なゲーム展開が非常に得意なお方だ」
「そうそう、どんな盤面でも冷静に対処できる、あの胆力は本当に素晴らしい」
 褒めそやせと命令したわけでもあるまいに、誰も彼も、ホワイトへの敬意を表した。きっちり、ぼくと彼の相違点も付け加えて。もしかすると、ぼくや彼と会話していて、マズイ状況に陥った際のトラブルシューティングマニュアルでも作成されているのだろうか。
 第一、まず白凰様に謝罪します。
 第二、ホワイト様とは異なるベクトルで賞賛します。
 留意事項、ホワイト様を白凰様と誤認した際には、即座にその場から離脱すること。
 ああ……心の底から、実にくだらない! ぼくは尚も止まない賛辞に対し、冗談でした、実はぼくはホワイトでした、なんて伝えてみようかな、とどこか本気で考え始めた。表面に顕れ出でた意識が、凶暴な人格だと判明したら、彼らはどう対処するのだろう。またあの、共感と友愛の欠落した、凍えた眼差しを向けるのか。頭が真っ白になって、お腹の底がぽっかり空虚になる、あの冷たい目。ホワイトにとっては日常の、無慈悲な他者。想像しただけで、ぼくはいっぱいいっぱいになった。
 結局、洒落にならないジョークは我慢し、その後は無難にやり過ごしたと記憶している。同様のシチュエーションは数え上げればキリがない。誰しもが、ぼくら二人への接し方に戸惑っていた。当人でさえ正解に辿り着いていないのだから、無理もない。

「随分と考え込んでるようだが、まだ構築中だぜ」
 ハスキーな声が、ひどく遠く、そして近くで鳴り響く。カードを掴んでいた左手の指先は、力を込めすぎたせいで、血色を失っていた。ハッとして、不自然に張り詰めた筋肉を緩める。支えを失ったカードはベッドの上へ軟着陸した。
「……いや、ちょっと気になってね」
「なにがだ」
「きみってどういう声なのかなあって」
「はあー?」
 シーツの上に散らばったカード群から、ランダムにピックアップして眺めつつ、対話が続く。どんな声。当然、ぼくとまったく同じに決まっているのだ。寸分違わず一致した骨格、同様に開閉する声帯。
「実際に聞いたことってないよね」
 ホワイトがせせら笑う。
「今聞こえてるだろーが」
「上手く表現できないんだけれどもね。こういうのじゃなくて、もっと客観的というか、他の人が聞いているきみの声ってのは、知らないから」
 自分の声は、骨の振動も含めて聞こえているので、他者の受け取る声とは異なるらしい。そうであれば、脳内のイデアと現実の声は、どのように違うのだろう。スリーブに収められたカードの表面はすべすべと滑らかで、心地がいい。触れた日より、触れなかった日の方がずっと少ないぐらい、ぼくの日常となったカードたち。
「……そういや、こないだぼくが出た大会、神殿の野郎が参考資料だとかいってアレコレ動画回してたぜ」
「え、それって本当?」
「ネットに上げてえとか宣ってたから、いつもの限定公開で見れるんじゃねえのか」
 その共有方法なら、神殿内では割とポピュラーなので承知している。メンバーが参加した大会などは、後から研究できるよう、ビデオに収録されるのだ。あくまで身内の研鑽用なので、撮影されたデータは神殿関係者等のみに限定して、インターネット上にアップロードされる。同時に動画へのリンク先が各員へ送付されるので、そこからビデオを視聴できるのだ。以前はDVDに焼いて回していたようだが、手軽なのでこういった手法に現在は落ち着いている。最近は中々腰を据えて再生できていなかったので、どこかで時間を取りたいと考えていたところだった。
「うろ覚えだけど、携帯で適当に調べてみろよ」
 頷いて、右に左に視線を彷徨わせる。ベッドサイドテーブルの上で、目当ての白い端末を発見した。薄っぺらい筐体に、驚くほど多種多様な機能を内包している。正直、ぼくにはまったく使いこなせていない。大掛かりな調べ物なら図書館へ向かうので、用途が分からなかったのだ。白凰様、携帯というのは検索だけじゃないんです。SNSとか、色々あるでしょう、だなんて周りにどやされた記憶が鮮烈に蘇る。幸いにも神殿の関係者が代わりにアカウントを運用してくれているので、広報や情報収集といった面での心配はない。SNSには大きな関心を持てず、他のアプリなどもピンとこなかったぼくには、この端末は不要に思えた。しかし、もしもの時に連絡手段となるから頼む、と泣きつかれてしまったので、今でもこうして所有し続けているわけである。外出時には肩身離さず持ち運ぶように心がけていたが、部屋の中ではほとんど使用しないので、妙に動作が慣れない。画面のロックを解除すると、簡素なホーム画面に遷移した。壁紙は自由に変更できるとミミくんに教わったので、そこだけはデフォルト設定と異なっている。背景に映るのは、勝舞くんをセンターに据え、黒城くんと撮影したスリーショットだ。笑顔で跳び上がっているのは勝舞くん。そんな彼の脚を持ち上げている黒城くんの表情には、苦悶の汗が浮かんでいる。陽気な友人と、深刻な顔つきの友人が同じ一枚に収まっているのが可笑しく、また微笑ましい。ピクセルの向こうのぼくも、随分とリラックスしている。
 感傷もそこそこに、ぼくはメールを立ち上げた。重要な連絡はぼく個人のアドレスへ宛ててもらうようにしているので、専ら確認するのは自分の受信フォルダのみだ。それも、ぼくのオープンなアドレスではなく、プライベートの連絡先を把握している者は限られているので、送られてくるメールの数もそう多くない。案の定、前回チェックした時からフォルダ内に変化は見受けられなかった。神殿の共用アドレスフォルダをタップする。個人宛のものだけ開封すれば大方差し支えない分、ザッと目を通してばかりだから、色々と埋もれたメールも多いだろう。
 検索欄に、ホワイトが出た大会名を打ち込んでみる。言わずもがな、危なげなく彼が優勝を勝ち取った試合だ。決勝戦の様子は、彼が誇らしげにぼくへ語ってみせたので、偏った視点ではあるが、大まかな流れは既にインプットされている。そうだ、じんわり思い出してきたぞ。暫く、事あるごとに脳内で彼が「ぼくだったらそんなミスしないけどな。こないだの試合みたいに、あっという間にケリをつけてやる」だのなんだの、ひけらかしてくる時期があった。余程思い通りにゲーム展開を運べたのだろうと感心していたが、この大会のことを指していたのだろう。改めて、カメラという中立的な観測者を介して検証せねばならない。
 ようやく拾い上げられたメールの文面から、青く輝くハイパーリンクを踏む。まもなく小さな画面の中に、熱気を帯びた会場が現れた。観客席から撮影していると思しき映像は、時折ひどく手ブレを起こしていた。前列でひしめき合う頭と頭の狭間から、辛うじて巨大モニターを覗くことができる。公式に運営が映像を配信するような、大規模大会であれば、そもそもホームビデオなどは撮らずに済む。スタビライザーなどは用いていないし、手の空いたメンバーが適宜対応している代物だから、音声だってノイズ混じりだ。それでも、後々にアーカイブとして試合の模様が公開されないような試合では、こうやって地道にデータを収集していくほかない。テキストだけでも大筋の展開は記述できる。しかし、カードゲームは生身の人間と人間がテーブル越しに対峙する心理戦だ。手札へ配られた視線、相手の出したカードへの小さな反応、チャージするマナを選ぶ際の僅かな逡巡。対戦者同士の息遣いを、的確に表現できる言葉などありはしないのだ。
 比較的ステージと距離の近い地点にて、カメラは回されていた。どうやら関係者席からの景色らしい。ごった返し、身を乗り出す観客たちの視線は、すべて中央のアリーナへ注がれている。楕円型に迫り上がったフィールド、見慣れたデスクサイズよりも巨大な決闘台。そして、まだ真っさらなテーブルを挟み睨み合う二人。カメラから見て右手の青年は、前回の関東地区大会にて優勝した選手だ。これまで公式戦への出場記録がまったくないにもかかわらず、初参加にしてトロフィーを勝ち取った。いわば超大型新人である。そもそも対戦経歴の母数が少ないので、断言はし難いが、彼は光文明と闇文明の混合デッキを好んで用いるプレイヤーだった。ここ最近の環境には入ってこない、独自のスタイルを貫くプレイングが持ち味だ。
 そして、緊張した面持ちの青年と向き合う影は、微動だにせず、真っ直ぐに対戦相手を睥睨していた。熱く眩い天井のライトが、両眼の表層で乱反射する。きつく寄せられた眉の下で、微かに色づいた眦。
 じわり、じわりと全身から力が抜けていく。ぼくを大地へ引き止めていた鎖が解けて、急浮上するような感覚だ。ひどく心許ないが、どうしてか心地よい。
 この人が、彼がホワイトなんだ! 
 妙な手応えだった。自分と体を共有するもう一人の人格の姿。それを画面越しとはいえ、観察している。自分と瓜二つの顔なのに、細かな所作はまるで違う。亡霊とバッタリ出会ったような、ドッペルゲンガーと曲がり角でぶつかったような、おかしな体感だ。ぼくだけど、ぼくじゃない人。ぼくじゃないのに、ぼくである人。ずっと知っていたのに、まるで知らなかった片割れ。
 これって本当にホワイトなのだろうか、だなんて、敵対心剥き出しの立ち振る舞いを見ているのに、愚かな疑問を抱いてしまった。ぼくにとってホワイトは、内側の概念だ。ぼくという深淵を覗いたときに、その奥の奥、ずうっと向こう側の果てから、こちらを見返してくる存在。それが彼。背筋を伸ばし仁王立ちするホワイトをいきなり視認しても、それがいつもぼくの中にいる彼であると、すぐには結びつかなかった。
「シールド展開!」
 右手の青年が威勢よく手をかざす。青く煌めく四角形が、目前に出現した。何度どころか、何十回、何千回、何万回と見てきた光景なので、これまで意識したことはあまりなかったが、凛とした決闘者の盾は、気高く美しい。
「シールド展開」
 もう一人も、続けてデッキから五枚をシールドに並べた。ごく小さな声であったし、ろくにマイクは拾えていなかったが、どんな音よりも際立ち、障壁を越え飛び込んできた。いつもぼくへ語りかけてくる、形のない声。それが、ぼくにそっくりな決闘者から発せられた。
「ホワイトだ……」
 ぼくは半ば呆然とした。
「だからそうだって言ってんだろーが」
 彼はぼくのオーバーな反応へ、怪訝そうに返答した。きみにとってはいつもの「自分」でも、ぼくにとっては大発見なのだ。必死に探していた失せ物がひょっこり顔を出して、ずっとぼくの掌の中にいたと告げられたような心地——ううん、到底喩えることなど出来ない、そんな、そんな瞬間なのだ。  そこからの試合は、まさに彼の独壇場であった。ゲームと呼ぶよりも、捕食と称した方が的確だろう。対戦相手の意図した展開を読み切り、素早く希望の道を断つ。相手方の青年が愕然とし、思うように整えられなかった盤面を建て直そうと躍起になっている内に、ホワイトは主力クリーチャーを集結させ、あっという間にとどめを刺した。プレイヤーを守るシールドが、呆気なく端から順繰りに砕けていく様は、どうにも心が痛くなる。だが、ゲームは真剣勝負。勝者と敗者が生じるよう、運命づけられているのだ。
 ホワイトは、あくまで素っ気なく物静かな仕草で試合を進めていた。勘違いされやすいが、彼は感情の振れ幅が極端なだけであって、常日頃ハイなわけではない。むしろデフォルトの彼はダウナーな雰囲気を醸し出している。しかし、敗北した相手の青年がたまらず崩れ落ちるのを確認すると、ついに勝利の雄叫びを上げた。瞳孔が一気に散大する。高らかな、愉悦の笑い。
「ヒャッホー! ぼくの勝ちだァー!」
 観衆の、カメラの、スポットライトの焦点が、歓喜に満ちた彼に重なる。
 他者からの間接的なフィードバックでしか知り得なかった影が、明瞭な輪郭線を獲得し、ゆらりと立ち上がった。

 

「流石ぼくってカンジの試合運びだったろ」
「うん、いいゲームを見せてくれてありがとう」
 食い入るように長いこと画面を見つめていたせいで、口の中は渇き切っていた。首の中、管の壁面に若干の痒みが生じている。
「おいおい、カサカサじゃねえか。調子おかしくされたら面倒くせえから、早くなんか飲んで潤せっての」
 そう言い放つ彼の声も、身体の状況に合わせてか、低く掠れていた。実際に彼の喉から水分が奪われているわけではない。あくまですべての現象は、ぼくという一つの大いなる環境の中で始まり、終わり、続く。ひどく内向的で、ひどく閉鎖的な小宇宙だ。だのに、何故こうも彼の存在には、逼迫したリアリティを感じるのだろう。
 やっぱり、同じ声なのに全然違うよ。透き通っているのに、隠し切れない陰。神経を通り過ぎても、心の中でずっと甘くざわつく。
「そうだね……」
 立ち上がり、テーブルの上のどす黒い液体を口に含む。昼間にはあんなに楽しそうに弾けていた泡は、どこにもいない。誤魔化せない過度な甘味が、口の内壁にまとわりついた。潤わせるという目的からすれば、十分すぎるかもしれない。
「……これは、時間が経つ前に飲み切ることが肝要だね」
「トーゼンなこと、真面目に言うの得意だよな、おまえ!」
 ホワイトが揶揄う。破壊衝動の具現化。呪われたこども。白凰さまに巣食う異形。周囲がかつては正面から、今は心中で評しているであろう表現が頭をよぎった。とりたてて、止めてくれとは言わない。言うこともできない。だが、彼らは分かった上でラベルを思うがままに貼り付けているのだろうか。ホワイトも、ゲームに対しては貪欲かつ純真な想いで向き合っていることを。
 続けざまに、詮ないことをつらつら述べるホワイトを尻目にベッドに戻る。放置していた携帯の液晶は仰向けになっており、停止した会場が見えた。
「あれ、まだ続きが」
 ホワイトの一位が確定したあたりで視聴を終えていたが、再生バーは半分を超えた辺りで滞留していた。この後に予定されていた試合など残っていただろうか、と訝しく思いつつ、適当にスライドさせてみる。指をスクリーンから離すと、甲高いキーの音声が突発的に流れだした。
「ホワイトさまっ、四ターン目にあのカードをフィールドに出したのはどういった判断だったんでしょう」
 単語の最後が角ばった、アナウンサーみたいな言い回しだ。カメラのレンズは、見るからに不機嫌極まりないホワイトを捉えていた。
「それ毎ターンごと聞くつもりかあ? 大体、もっと静かなとこもあんだろ、なんだってこんな中途半端な……」
 聞き手の女性が短く謝罪するが、一面で飛び交う雑多なノイズに掻き消されてしまった。どうやら大会の終了後、関係者が使用する廊下にてインタビューを行っていたようだ。ホワイトの視線が右や左へちらちらと動くのに合わせ、賑やかな集団の話し声が、大きくなり、また小さくなっていく。暫く落ち着いたかと思えば、また次のグループの歓談が、通路を移動していった。確かに折角のインタビューなのだから、なにもこう忙しない場所でなくともよかっただろうに。充足感と疲労感を抱えた選手たちの足音が、不揃いに響く。
「でもほらっ、この後も予定が詰まってますし、聞ける内に聞いとかないと、と」
「アホみたいに書き加えてんのはてめーらだろーが!」
 人気の多い場ではあるものの、なんやかんや聞き取り自体は順調に進んでいった。
あのターンでは、二つの呪文が使えたかと思いますが、何故あちらを先に使用されたのですか?
 前回使用されていたデッキと比較して、当該カードの枚数が変化していますが、どういった意図でしょう?
 逐一、ホワイトの采配を骨組みから分析していく質問だ。どんなに細かな疑問であっても、割りかし彼は真っ当に答えを打ち返した。自分の構築したデッキ、選び抜いたカード、華麗に勝利を収めたゲーム内容。これを聞かれて不快になる決闘者など、いるはずがないのだ。
 時たま、画面外から野次が飛んできた。チャンピオンたるホワイトへの労いの声であったり、次なる対戦への期待であったり。刺激に満ちた戦いを終えた選手たちにとって、ヒーローインタビューを身内から受けるホワイトは物珍しかったようだ。
「うわーっ、近くで見ると、マジで白凰とクリソツじゃん」
「どういう関係なんだっけ? え、兄弟?」
「とおーい親戚なんじゃなかったか」
「ちょっ、ちょっと」
 インタビュアーが慌てて、近寄ってきた見物人とホワイトの間に割って入った。映すべき箇所はどこなのか、悩ましげにカメラの画角が右往左往する。お揃いのユニフォームを身に纏い、同じ色の鉢巻を額に巻いた集団にとって、女性の控えめな制止などなんの意味も為さなかった。ホワイトと、タイルの敷き詰められた壁だけが映っていた範囲に、異色の人間たちが乱入してくる。赤と緑で統一されたカラーリングは、関東地区では名の知れたとあるチームの象徴だ。リーダーらしき青年が、まじまじとホワイトの顔を観察する。頬の丸み、鼻先の尖り、あらゆる特徴を入念に調査していた。実験対象と化したホワイトは、顰めっ面をまるで隠さずに口を噤んでいた。首筋から肩のライン、続けて胸部、腰、ズボンまで見下ろして、青年は納得したように唸った。
「いやいや、ていうか双子だな、こりゃ。似てるってレベル越えてるわ」
「どっちがお兄さんなんだ?」
「はっちゃけ具合でいくと、ホワイトが弟じゃねーのか」
「アハハ、あの白凰が弟だったら、それはそれでギャップってか、おもしれーかも」
 取り巻きの選手たちも、陽気な発言を重ねていく。ああ、そういえば、ぼくとホワイトは別人ということで対外的には公表しているのだった。帰宅してすぐに沈み込んだ、うたた寝のフラッシュバックを思い起こす。

あの時の強烈な追憶の通り、ぼくはホワイトの残照を隠し通そうとしたが、無謀な試みは失敗に終わった。拭っても洗っても落ちない血痕のように、根深く染み付いた人格。ぼくだけが抱えた真っ白な秘密。それがホワイトだった。しかしDr.の計らいによりまずは仲間内にだけ、ホワイトの存在を打ち明けることとなった。
 友人への告白は随分な難題になるであろうと予測していたが、現にその通りになった。勝舞くんは唖然としていたし、ミミくんの涙は一週間止まなかった。子供も大人も、驚愕と恐怖に満ちた表情を浮かべていた。だから自分の中で留めておきたかったのだと、あの頃は日々苛まれていた。ぼくの問題を曝け出すことで友人を苦しめたくなかったのだ。以前のWとはまた異なる、ホワイトという人格としてどうにか理解を得られるまでは、いくらか時間を要した。経緯が経緯であるので、致し方のないことだった。
何故呪縛が消え去ったにもかかわらず、ホワイトの息吹は絶えないのか。ぼくや、ホワイト自身すら含んだ全員にとっての大いなる謎であった。今に至っても、なお。献身的にぼくを診察してくれていたDr.の懸命な説明により、ぼくとホワイトの歪な繋がりは徐々に仲間内の共通認識となっていった。
 同時に、ややこしい生活の成立という、新たな課題に迫られた。ぼくとしての日常、ホワイトとしての日常、はたまた双方にとっての日常を、すべて併存させなければならない。限られた知り合い相手に決闘をしていたホワイトも、やがて変わり映えしない対戦に不満を漏らし始めた。勝舞くんとの決闘だけは常に喜び勇んでいたようだが。両手で足りるほどのバリエーションしかテーブルの向こうに現れない毎日に、ホワイトが外の大会への出場を望むのは、自然な流れではあった。
 このままひた隠しにし続けたところで、いずれボロが出るとは感じていた。いつ誰の口から漏れるとも知れないし、ホワイト本人が暴走するかもしれない。下手な形で露呈するよりは、自分たちのコントロールできる流れで公表した方が、ハレーションは少ないだろう……ぼくたちは話し合い、まったくの他人としてホワイトを社会へ送り出すことにした。世間のイメージしている「白凰」には別の人格が、だなんて暇な人間たちの格好の餌食になりそうな属性は、勿論伏せて。
 ホワイトが公式大会へ顔を出したばかりの当初は、やはりというかなんというか、凄まじい反響が巻き起こった。あの白凰にソックリな正体不明の決闘者は誰だと、連日どこかのメディアで取り上げられていた。とはいえ、試合中に仮面を被り続けるわけにもいかないし、ばくと一致した顔つきは誤魔化しようがないので、どうにかこうにかやり過ごし、煙に巻いた。互いのことを質問されても、他人の空似ではないかな、だの、遠い親戚かも、だの、のらりくらりと躱してきたのだ。大衆とは実に薄情なもので、絶え間なくなにかしらの形で掲載されていた記事も、数週間、数ヶ月と経つほどに数を減らした。都市伝説よりも掴みどころのない人物・ホワイト。その正体への関心は失われていった。移り気な人々は、次なる話題の種を貪るのに夢中なのだ。やがて追及は止み、今では神殿が発表した通りに「遠い親戚」として世間では受容されている。
「おんなじ顔してんのに、アンタ怖いなー! 美形だから余計に!」
「兄貴は、どっちかっていうとカワイイ系の雰囲気だもんな」
「えーっ、白凰は結構、キレイ系だろ」
 しかし携帯の中では、勝手にぼくとホワイトが双子として認識されたまま、会話が展開していった。ついでにぼくが兄、ホワイトが弟だと成り行きで決定している。
「……ぼくは弟じゃねえ……」
 ホワイトが小さく、だが力強く訴えた。彼はこども扱いされるのを相当に嫌がるから、想定通りの反応だ。
「ありゃ、じゃあアンタが上?」
「うっそーっ、こりゃ失礼、おにーちゃん!」
 大人しく引き下がるかと思いきや、絶え間なくレスポンスが飛んでくる。
「お、おにーちゃんだと?」
 面食らった様子で、ホワイトが大きく瞬きをした。
「あれ、違うの?」
「……ぼくとアイツは、兄とか弟とかそういうのじゃねえ、もっとこう、なんていうか、同じっていうか……」
「分かったぞ!」
 人一倍立派な体格の選手が、筋肉を唸らせ両手を叩いた。雑多な音で溢れかえり、ごたごたとした空間を、破裂音が切りつける。ホワイトはもちろん、周囲のメンバーさえも目を丸くした。
「双子だから、どっちが上とか下とか、どうでもいいってことだろ。なんたって、ずっと二人、隣同士で、同じなんだから」
「ああ、なるほど、それもそっかあ、どっちも同い年だしなあ」
「くーっ、お二人さん、仲良しなこって!」
 ますます勘違いが加速する。ホワイトは屈強な選手たちに揉みくちゃにされていった。飼い主に褒められる愛犬のように、頭のてっぺんを撫でられ、肩を叩かれている。
「触るなっ、てか近づくなっての!」
 あちこちから伸びる手から逃れようと、必死に身を捩るホワイト。対照的に、満面の笑みを一様に浮かべたプレイヤーたち。
「オイ!」
 と、インタビューがいい加減に崩壊したあたりで、ホワイトが鋭く怒号を放った。過去に記録され、再生ボタンにより復活する周波数ではない。リアルタイムで鳴り響く声だ。
「ちょっと気ぃ抜いたら、変なもん見やがって」
 どうりで、インタビュー鑑賞の冒頭からやけに静かだと思っていたのだ。交代中に引っ込んでいる意識の有り様は実に不可思議である。表の風景を直接体感している時、一歩引いて少し奥まった場所から見物している時、随分と離れた後方で安らいでいる時、とレベル差がある。神経が張り詰めている際には、常に前線へと感覚が向かうが、反対にリラックスしていると、今のホワイトのように外界の変化へ鈍感になる。入眠時とよく似た状態へ陥るのだ。
「変って、きみの凱旋インタビューじゃないか」
「お前、こうやって最後までキッチリ見そうだから、言いたくなかったんだよ。ほらっ、もうやめろやめろ。この後も延々とくだらねぇ絡みをされてるだけだ」
 だとすれば、余計に気になる。事情を知っている者であれば、ホワイトには一線引くのが常だ。こうやって、まったく複雑な背景を存ぜぬ他の選手が、親しげに彼へ接してくれている光景を目の当たりにするのは、初めてと言っても過言ではなかった。
「てめーの新しいデッキ、まだ組んでねーだろ。続けようぜ」
ホワイトが催促するので、ひとまず意向に従うこととした。動画の残りは、彼の意識が引っ込んでいる際に見ればよい。ぼくは頷き、携帯を元の場所へ戻した。

枕に頭を預け、大の字になる。
寝転がりながらカードを吟味すると、童心に返るような心地がした。白い柔肌の如き敷布が、ぼくの身体をまるごと抱きしめ、ふかくふかくへ誘う。見上げればとおいとおい星々が、寄り添って語らっている。きらきらと、ぼくらには聞こえない声で。宙の胎内を泳ぎ、心から戯れていた。ぼくとホワイトの交わりも、あの孤独な光と似ているのかもしれない、と夢想した。
 これまで、ぼくは彼の傲慢な導きにより、良識という沼から遠ざけられているように感じていた。居心地が良かろうと悪かろうと、身勝手にぼくを引き摺り出し、あちらこちらへ連れ回す。ほうら、外の空気を吸ってみろ、お前は自由の身なのだと、どこか誇らしげに教える。ぼくは覚束ない帰り道を、必死の思いで見つけ出し、再び安寧の水源へと沈む。
 しかし、いよいよ修正する時分かもしれない。
ホワイトは、ぼくの過去を、未来を、人生を塗り替えるトリックスターだ。ぼくとは致命的に混ざり合えない、一線を挟んだ人格。ぼくではないぼく。  だからこそ、「ぼく」では抱え切れないような仄暗い欲望を、ホワイトは請け負ってくれる。ぼくは「ぼく」のままでいられる。ホワイトがいくら傍若無人に振る舞おうと、ぼくは「ぼく」を保つことができる。同様に、ホワイトはどこまでも「ホワイト」でいられる。利害と精神と運命が一致した生きもの。  ぼくは彼の底知れぬ闇を恐れ、忌避していた。その抵抗感は、完全に消え失せることはないのだろう。それでも、あの真っ白な手が、ぼくを丸ごと引っ張り上げてくれるのを、どこかで待望していたのだ。
(その実ぼく自身こそ、この不合理で、微かに非道徳的なシチュエーションを望んでいたのではないか)
 ああ、まさにその通りだ。一言一句、肯首するほかない。
(彼から差し伸ばされた手を、喜んで掴み取ったのは紛れもないぼく自身ではないのか)
 分かっていた。分かってはいたが、真正面で受け止めるには重すぎる直感だった。そう、今日のように、肉体のバランスが崩れて、思考回路までもがショートしそうな日でなければ、まともに考えられなかっただろう。
 狂った二重性を歓迎していたのは、ホワイトだけではない。紛れもなくぼく自身も、主体であった。
 ぼくは、彼のように直情的な振る舞いがとれない。行わないのではなく、根本的に選択できないのだ。常に白凰として、確立した人物として見なされる身だ。栄光ある勝利を宿命づけられた決闘者、とうに決められた役割と立場、常に求められる理想の姿勢、絢爛な光の子!
 だが、はなからそんな人間などいないのだ。期待と抑圧で縁取られた、まやかしの少年。白凰とは一体だれなのだろう。みなが白凰さまと呼び、慕うのは一体だれのことなのだろう。ぼくにとって、外の世界はよそよそしく、そっけなかった。あちらこちらから、勝手にぼくを観察して、形を決めて、無理やり平面にまとめあげたキュビズムの怪物。それこそ世間が期待する白凰だ。ぼくは、ただのぼくなのに。

まだ……まだホワイトへの想いを言語化することはできない。しかし、これだけはハッキリと分かる。ホワイトは、ずっと怯えていたのだ。ちぐはぐな心と身体に苛まれ、助けを求めていた。ぼくの対となる存在として彼のアイデンティティーは悶え、燃え盛り、高く舞い上がる。ホワイトもまた、ホワイトでしかない。悪の心の表象でもなければ、魂を喰らう魔物でもない。少しばかりこどもっぽくて、気まぐれで、皮肉屋な、もう一人のぼく。

ふと気付く。思わず眉間に皺を寄せてしまうほど、突発的に、かつ強烈に襲いかかってきた頭痛の波も、とっくに凪いでいたと。いつか、きっといつか……ぼくの体調を誘い文句にしなくとも共に過ごせるだろうか。二人で夜空の下、密やかな囁きを交わせるだろうか。

星より遠く、海より暗い場所へ、意識が融けていく。

ああ、聞こえるよ、きみの声が確かに聞こえる。あまりに深い、存在の嘆き。音を失った慟哭。押し込められた絶望。
 もしかすると、ひょっとすると、ぼくならば、ぼくであるならば、彼の震える手を握ってやれるかもしれない。還るべき場所など初めから持ち合わせていなかった者同士、せめてもの拠り所になれるかもしれない。それは自己満足的で、自己中心的で、自己愛に満ちた行為だろうが、ひどく甘美に思えた。

二つのこころ、一つのからだ、重なるいのち。
 狂気的なぼくらの存在と本質は、罪そのものだ。成し遂げたことも、企ても、すべてが。悠遠の時、遥かなる原初からの因果。だとすれば、ぼくはこの在り様を受け入れなければならない。二人の原罪を、なにもかもを呑み込んでみせよう。
 どこまでも、二人は二人であるから。


下章 或いはホワイトの贖罪について

ひとのこころとは、どういう形なのだろう。
 目には見えないし、触れることも叶わないが、代わりに想像は膨らませられる。まるくて表面のつるりとした、たんぽぽの綿毛のようなものだろうか。はたまた四方八方へ棘を伸ばした、ハリネズミの背中みたいに拒絶的なもの? 純粋な直方体かもしれない。林檎を勧めた蛇の如くうねり絡まる、線にも喩えられるだろう。
兎にも角にも、こころの形は様々なれども、とある一点は普遍であるはずだ。一人のひとに、一つのこころ。過去から未来へ断絶せずに続く、一筋の跡。
 だとすれば、ぼくは相当に厄介な宿命を背負ってしまったらしい。途切れぬアイデンティティは与条件でなかった。かえってぼくには、一つのこころで生きていく状況が不可思議でたまらない。それはどんな心地なのだろう。己が即ち己であると、なんの疑いもなく断定できる明快さが、羨ましくも恐ろしい。確固たる形状を保ったこころも、一つに始まり一つに終わるこころも、ぼくは持ち合わせていない。
 ぐにゃりぐにゃりと枠組みが歪み、溶け合い、しかし決して交わらない二つのこころ。片方は、ぼく。紛れもない、ぼく自身。
もう片方は——ああ、名前を呼ぼうとするだけで、言語化しきれない焦燥感が地底より這い上がり、ぼくの空虚な胸を貫く。誰に分かるというのか、この自我の危機が、甘美な畏怖が。定型を失い、統一性も手放してしまった二人。

当事者は、ぼくと、我が尊くも悍ましき分身、白凰である。

珍しくも今日一日、ぼくのスケジュール帳は真っ白だった。幼少期から続く習い事は講師の都合が合わず急遽休みとなったし、神殿は改装工事のため、ここ一週間ほどは人の立ち入りが禁止されている。よって神殿での用事もない。出場を予定している大会があるにはあるが、それは来週末の話であり、今すぐ為すべきことといえば、手元のデッキが本当に恙なく回るかどうかの最終確認ぐらいであった。要は実に有り難い、平穏な休日である。放っておくと、すぐに周りの奴らが分単位で予定を詰め込むので、ここまで大きな空白は久しぶりだ。

 一人掛け用のソファに身を委ね、手元のカードを睨む。試しに五枚ドローしてみたが、どうにもしっくりこない気がした。この手札からの展開では、相手の戦略によってはパワー不足かもしれない。最近決闘者の間で話題になっていた汎用札でも差し込んでみるか。だが、例え一枚でも構成物を変更すれば、デッキはまるで別物へ成り果てる。四十分の一の狂い。作成者本人の予想を上回る爆発力を生むか、はたまた可能性を破壊してしまうか。どちらに転ぶか、気を張り詰めつつ大胆に調整を行うのも、ゲームの肝だ。今の環境を制しているデッキに刺さるのは、恐らくあのカード。強力なメタカードとして、幅広いプレイヤーがお守り代わりに採用している。カードの束をシャッフルしながら、ぼくは思案していた。きっと来週の大会でも、あのカードには相当な活躍の場が与えられるだろう。山札のトップを、指先で撫でる。滑らかなスリーブに守られた、ぼくのカードたち。人差し指で軽く小突いてみる。入れるべきか、入れざるべきか。魅力的なカードではある。単体で十分な性能を持っているからこそ、どんなデッキにも飛び込めるのだ。だが、どうしてもしっくりこない。何故だか腑に落ちない。どんなデッキにも合わせられるからこそ、独自のエグみが不足しているように感じる。ぼくが今構築している、このデッキでしか到達できない勝利への道。そうだ、既存のカードとのシナジーに欠けるのだ。もっと噛み合うものがあるはず、ああ、そういえば以前白凰が入手していたあのカードはどうだろう、割と今の環境対策にも有効なテキストだったはずだ。ストレージに眠っているだろうから、後でひっくり返さないと。こうやって、自分自身の手でデッキの内容を絞り出せると、この上なくワクワクする。どこぞの誰かが提供しているようなレシピを参考にするのも、為にはなるのかもしれない。だが、弱者の発想になど興味はない。自力で活路を見出す手探りの喜びも、無数にある決闘の醍醐味の一つだ。無論、最終的にもたらされる圧倒的な勝利こそ、ぼくが一番求めてやまないものではあるが。
 目当てのカードはどの棚に入っていただろうか。立ち上がろうと腹筋に力を込めた途端、白凰の声が真っすぐにぼくへと飛んできた。
「左の壁、上から三段目、右から二ケース目だよ」
 といっても、白凰がぼくの一挙手一投足を観察していて、次の行動を予測したのではない。白凰はぼくの内側から、ぼくと世界を同時に眺めているのだ。あのカードが気になる、確認しよう。そんな些細な思考すら、脳から深淵へと滴り落ち、もう一人の人格に跳ね返る。だからこそ、的確に要望が叶うわけだ。
「分かってるっての」
「だってきみ、まるで覚えようとしないから」
「てめーの分類が細かすぎんだよ」
 白凰は、個人的に所有しているカードをすべて系統づけて保管している。文明別、能力別、云々かんぬん。デューイ十進分類法ならぬ、白凰十進分類法だ。便利だからきみも規則通りに収納してくれ、だなんて頼まれてはいるが、神経質な区分にウンザリしたぼくは、未だに奴の法則を理解できずにいる。
「もう、ぼくが取りに行っちゃうからね」
 適当に荒らされても敵わないから、と白凰の意識が、一層前へ迫り出す。視界が明滅したかと思うと、ぼくは奥へと追いやられた。人格の交代は、日常茶飯事ではあるものの、やはり慣れない。
 正確には精神医学上で定義される解離性同一性障害とは異なるだの、だから今の状況を合理的に説明できる言葉はないだの。面倒臭いアレコレをDr.ルートとかいう医者から告げられているので、人格という表現は些か不適当かもしれないが、他に当てはまる単語も特に思いつかず、互いのことは別人格と仮称している。
「なあ」
 白凰に声をかける。今度はぼくが、脳内の幽霊と化したわけだ。肉体の操縦桿を握りしめた白凰は、几帳面に収納されたケースを取り出し、念入りに中身を確認していた。ついでに関係のない隣のケースの蓋まで開いている。
「あっ、これって結構トリッキーなテキストだねえ」
 カードの一枚一枚が、指で連続して送られていく。薄い紙が弾かれる度に、軽快な音が響いた。
「なあってば」
「こっちのカードと合わせたら、かなり容赦ないコンボになるかな」
 口元でもごもごと、呟きが転がる。引っ張り出したかったカードは、既に指と指の間に挟まっていたが、他のものへ目移りしているようだ。
「無視すんなよ」
「え、なに?」
「やっぱし聞いてなかったのかよ。サイテーだお前は」
「なんでご機嫌ナナメなんだい?」
 柔らかく丸みを帯びた話し方。まるで子供をあやすようだ。あいも変わらず、誰に対しても真摯で丁寧、品行方正な野郎。思わず語気が強くなった。
「気づくのおせーっての」
「ごめん、集中してたみたい」
「ああ、ガッツリ入れ込んでたな。てめー、ガキみたいな顔しやがって」
「あっ、また小バカにして」
 最近、白凰に対する攻撃手段として、新たなバリエーションが増えた。子供扱いする白凰を、こちらも対抗してガキ呼ばわりするのだ。庇護の対象として見做されることが、性分として気に食わないのは、どちらも同様らしい。ぼくがお子ちゃま扱いすると、白凰の声色に微弱な苛立ちの揺らぎが生じる。こういった瞬間があるから、揶揄いが止められないのだ。太陽が昇り、星が煌めくのと同様、ぼくは奴にちょっかいを出したくなる。自然の摂理だ。
「ところでどうしたの。随分と熱烈な声かけだったけど」
「今組んでんのって、今度やるド田舎大会のデッキだろ。まだ日数あるし、後ちょっと弄れば、大体の方向性は固まるだろ」
 来週末の出場イベントは都心からは遠く離れた地方での開催だ。それも、大きなイベントの前例がない北国の自治体である。あえて従来のエリアから離れることで、これまで決闘に関わりのなかった人々へもアピールするのが狙いだと聞いた。決闘の普及だとか教育だとか、そういった戦いと直接関係しない話題に、ぼくは関心などないが。とにかく、強い人間と血沸き肉躍る対戦ができればぼくはそれで良い。
「そうだね」
「調整が粗方終わった後、なんかおもしれーことってないのか」
 白凰がむむ、と芝居じみた動作で考え込む。
「面白いこと、ね」
「折角の休みだぜ! ワクワクするようなコトが必要だろーが」
「それじゃあ、近くの河川敷でも散歩するかい?」
「はあ~? 今まで黙ってたが、やっぱお前ジジくせえ。ありえねえ」
「嘘つき! こないだも言っていたよ。罵倒のバリエーションが乏しいよねきみって」
「あん? 煽ってるつもりかあ? 大体、この時季じゃあの通りも、カリッカリに枯れた木が並んでるだけじゃねえか。つまんねえ」
 紅葉の季節も過ぎ、街の空気は凍えている。澄んだ青空の下なら、どこを歩いても気持ちがよいのかもしれないが、あまりに温和すぎる時間の味わい方だ。今の気分ではない。
「文句があるなら、他に提案したまえ」
「おー、てめーより新鮮なアイデア出してやる」
 鼻息荒く意気込んだものの、続きの文章が詰まる。こんな時季に相応しい場所が喉元まで浮かんでいたのだが、どうにも名称が出てこない。かといって正直に地名を忘れたなんて宣言するのは、癪に触る。脳みそのエンジンのギアを上げ、暫く踏ん張ってみた。だが、やはり伝えたい単語の輪郭線はボヤけたまま、シャープにならない。
「……名前、出てこねー!」
「えー?」
 きみの方がすっとぼけているじゃないか、と白凰の胸中の声が聞こえた。今の分の侮辱は、忘れぬよう心に刻んでおく。
「うるせー、パッと出てこねえんだよ。ほら、てめーが前にお友達と話してたところ。テレビで特集組んでただとか、話題だとか言ってたやつ。色々新しいっていうさあ」
「また、随分と曖昧だねえ。そんな場所あったっけかなあ」
「早く思い出せ!」
 言い出しっぺが忘れているにもかかわらず、横暴すぎる、なんて白凰が大きくため息を吐く。そういえば、以前も似たようなコメントを受けた。仮にきみが王として君臨していたら、時代に名を刻む暴君になっている、と。ぼくからすれば、白凰の治世の方が、よっぽど悲惨な期間になりそうだ。自分のことをマトモだと思い込んでいる狂人ほど、恐ろしいものはない。
「あーっ、もしかして……」
 白凰が、壁から離れて室内をほっつき歩きながら挙げたワードは、まさにぼくが求めていたエリアの名称だった。詳細はイマイチ覚えていないが、つい最近に再開発が完了した街だ。寂れていたメインストリートは特に集中的に改造されたとかで、店やらなんやらが増えて見所が多く、新しい定番スポットが生まれたと、メディアで話題らしい。勝舞やその愉快なお仲間たちが、白凰へ嬉々として共有していたのだ。
「みんなが教えてくれたところだね」
 心なしか弾んだ調子で、白凰が頷いた。決闘関係のショップが集まった区画もあると勝舞が伝えた時の、こいつの喜びようったら、そりゃあ随分なものだった。いわゆるフードやファッションといったテナントについて、白凰の取り巻きの奴らが熱心に語り合っていた際には、空を揺蕩う雲を見るような目つきで佇んでいたにもかかわらず、だ。聖人君子でござい、と言わんばかりの立ち振る舞いをしているが、不平等な側面を確かに持ち合わせている男なのだ、こいつは!
 とにかく、変わり映えしない会話の中で白凰の見せた関心が、妙にぼくの中で絡みつき、記憶に残っていたのだ。穴の空いた予定の代替案としては、悪くないだろう。別に、行き先などどこでも構わなかった。
白凰が右手を顎下にあて、小さく頷いた。
「じゃあ、もう少ししたら支度しよう。ここから三十分もかからないだろうし」

「ってかさみぃーー!」
 ぼくは両腕をクロスさせ、耐えきれず自身の身体を強く抱きしめた。
自然と発熱するインナーに、厚手のシャツ。裏起毛のセーターも着て、最後には白いロングコートも羽織っている。手袋を装着しマフラーもぐるぐると過剰に巻いて、冷えやすい箇所も防御を固めた。防寒と人目を逸らす意味合いを兼ねて、マスクまで付けた。冬に特化した完璧なコーディネートだ。だのに、研ぎ澄まされた剥き身のナイフのように凍えた空気が、絶え間なく全身を狙う。
「都心ってこんな寒いもんじゃねえだろ」
「今年は特に冷え込みが厳しいんだ。ひょっとすると降雪するかもしれない」
 白凰の答えが、頭の中でじんわりと染み込んでいった。毎日せっせと新聞を読み込んでいるだけあって、世間の動向には案外目敏い。しかし、イマドキ電子タブレットでいくらでも情報収集できるだろうに。見かけによらず、内面は仙人みたいだ。
「まだ年も明けてねーのに」
 すっかり悴んだ耳を揉みほぐす。耳当ても持ってくれば良かった、と今更なことを思いながら、ぼくは辺りを睥睨した。向こう一キロ以上に渡って続く、メインストリート。並木道は暖色の照明に彩られ、すっかりホリデー気分に浸っていた。たっぷりと道幅に余裕を持って設けられた石畳の歩道には、どこから来たのかと聞きたくなるほど、大衆の頭がぎっしりと蠢いている。海外のいずこかの街を真似たらしく、どの店構えも統一された素材、構造、色合いだ。意図的に演出された調和は、どこか人工的ではあったが、浮かれた人々にとっては些細な問題であった。それどころか、非日常的な雰囲気を醸し出す街並みに、誰も彼も足取りが軽い。
「とりあえずザッと見てみるか」
 弛んだマフラーを締め直し、ぼくは真っ直ぐに通りを歩み始めた。一旦突き当たりまで行った後、折り返すように反対側の路地を進めば、くまなくテナントを確認できる。
 訪問者をまず出迎えるのは、ジュエリーやバッグなどのブランドショップたちだ。煌びやかな光がショーウィンドウから溢れ、一人、また一人と客が吸い込まれていく。鞄は事足りているし、財布も特に傷んでいない。指輪といったアクセサリー類は身に付けないので、取り立てて購入することもないだろう。一応白凰にも問いかけてみたが、予想通りのつれない反応だけが返ってきた。ショッピングを主目的としてやって来たわけではないので、ほとんどの店を素通りした。
 ぼんやりと眺めながら散策を続けていく内に、ファッションエリアへと突入したようだ。女性向け、男性向け、幼児服、ありとあらゆる層を狙った、多種多様な店が軒を構えている。頭の中で、自室のワードローブを想起する。裾がほつれたり、形のくたびれたりしたものはなかったはずだ。流行り廃りのないベーシックな衣服ばかりを持ち合わせているので、今年も新調せずに終わりそうだ。ああいや、インナーなんかはそろそろ取り替えてもイイ頃合いかもしれない。だが、わざわざこの寒空の下、肌着の一枚や二枚を携えて街を闊歩する気にはならなかった。また必要に迫られたら考えればいいだろう、と再び視線を彷徨わせた。
 頬を紅潮させた人々が、さも愉しげに口を大きく開け、通り過ぎていく。どの人の手にも、大中小様々な紙のショッピングバッグがぶら下がっている。カラフルな色相の袋が、トーンの落ち込みがちな冬の通りに彩りを添えていた。なるほど、腑抜けた人混みもこうやって観察してみれば、多少の見所があるように思えた。目新しい店に夢中になっている人間どもは、常に自分たちの側方か上方に気を取られている。餌を待ち望む金魚みたいに、パクパクと刺激を求めているのだ。ぼくに向けられた視線は、皆無に等しかった。
 これは実に気分のよい条件だ。ホワイトとしてぼくに注目するのであれば、どうだって構わない。問題は、白凰と取り違えたまま、無意味に浴びせられるスポットライトだ。以前と比較すれば、随分とぼくの立ち位置への理解も進んできたが、満足のいく水準には遠く及ばない。凡人どもに、ぼくを正しく解釈してほしいなどと望む方が、お門違いなのだろう。だからこそ、こうして他者からの判断にやきもきせず、無駄な労力を払うことなく過ごせる時間は、貴重であった。
 街灯に備え付けられたスピーカーから、エンドレスに曲が垂れ流されている。聖なる夜を想起させるメロディと、鈴の音色だ。ほんの少しだけ、柔らかなマフラーに埋もれた口元を、外気に晒した。小さく咥内の息を溢すと、半透明の煙が生まれ、瞬く間に霧散していく。しつこいぐらい、冬だ。
「あれ、もう終わりか」
 いつの間にやら、ぼくは片方の道を歩き終えていた。ものの二十分、といったところか。人の流れを妨げないよう脇に逸れつつ、今し方来たばかりのルートを振り返る。
「看板があるよ。ちょっと見てみたら」
 白凰が告げる方向へ顔を向けると、こじんまりとした案内板が、タイルの合間に突き刺さっていた。ちょうど人々の意識から外れやすい場所に建っているせいか、立ち止まる者はいない。これ幸いと近づいてみる。図形とアイコンが組み合わさった表示を、ぐるりと読み込んだ。
「あー、決闘系のは反対側だな。ちょうど道路を渡ってすぐだ。そのまま進むと、メシ屋ってカンジか」
そうと分かっていれば、はなから向こう側の道を歩いていたのに。思わずひとりごちると、白凰が小さく苦笑した。
「無目的な散策というのも、悪くはないよ」
「てめーは物好きなんだよ」
「イルミネーションも綺麗だし、それだけでも来た甲斐があるんじゃないかな」
 確かに、まだ日が暮れる前だと言うのに、街路樹に巻きつけられた電飾は随分と華やかだ。横断歩道のど真ん中では、なんとかライトアップしたメインストリートを中央から捉えようと、カメラや携帯電話を構える人々が渋滞を引き起こしている。端から見てもセンターから見ても、LEDの発光の質が変化するわけでもないのに、けったいな連中だ。交通整理員の警告があちらこちらで飛び交う中をくぐり、道路を横断する。
 向こう十軒ほどに渡り、決闘に関連した様子の店が並んでいるようだ。カードそのものを売買しているショップもあれば、関連サプライに特化したテナントもある。中には、カフェスペースの併設されたプレイエリアもあった。洒脱な純喫茶、といった風体の店内から漂う、珈琲豆の燻された芳醇な香り。なるほど、確かに勝舞たちの語っていた通りに、店構え自体は充実している。老若男女問わず、どのストアにも人が押しかけていた。大会に出場するようなプロプレイヤーというよりかは、カジュアルに付き合うライト層が多いように映る。いい加減、縮こまった身体を暖房の効いた部屋で安らげたい。 
 適当に目についた店へ飛び込んだ。一般的なカードショップよりも天井の高く、開放的な空間だ。壁一面に建てつけられたディスプレイを覗き込む。強化ガラスの向こう側では、圧迫感を覚えるほどに大量のカードがひしめき合っている。所々に添えられた手描きのポップが、空調の風でゆったりとはためいた。
「まさにイチオシ!」「黒単を貫く貴方に」「絵柄違いレアです」好き勝手なコメントが、カードを必死に売りこむ。
 混雑した室内の中でも、ひときわ賑やかな箇所があった。人の流れが滞留し、時折大きな歓声が上がった。何事かと遠巻きに観察してみる。どうやら新発売のパックやボックスの売り場らしい。つい三日ほど前に市場へ登場したばかりのパッケージが、バックヤードからレジへ、レジから人の手へ、目まぐるしく受け渡されていく。購入した客の足取りは、そのまま近隣のプレイスペース兼カフェへと向かう。ショップ内での開封は基本的に禁止されているので、内容の確認がてらお茶なり決闘なり楽しむには、別の店を訪れる必要が生じるのだ。実に動線を意識した作りである。このメインストリートでじゃぶじゃぶ金を回してほしい、という関係者の意図を強く感じる。
 今回収録予定のカードは、どれも自然文明や火文明中心だったので、購入するつもりはなかった。だが、わざわざ身を切るような大気の中を歩き回った結果、収穫物がゼロというのも味気ない。人の流れが途絶え、キャッシャーの前がガラ空きになったタイミングで、十パックほど注文してみた。普段は神殿経由でカードを入手する場合が多いので、こうして店舗で直接的に頼むことは、あまりない。
 店員の溌剌とした接客も相まって、妙な居心地の悪さを感じつつ、他の店も巡った。ストアごとに力点が異なるようで、品揃えにも個性が滲み出ている。
「ねえ、そのカード、きみが欲しいって言ってなかった?」
 呼びかけるままに目線を動かす。種類も名称もとっ散らかったまま、乱雑に並べられたカードの塊。ケースの中で陳列されている花形とは違う、在庫の山だ。
「そのカードったって、わんさかあるぜ」
「鈍いなあ、端っこの方!」
 あれでもない、これでもないと適当にカードを拾い上げてみる。暫く取捨選択を繰り返していると、眼球の運動が突如として止まった。ロックをかけられたように、視線を移動できない。少しだけ悴んだ指先に、見覚えのあるカードが挟まれている。パソコンのスクリーン越しに、幾度となく見た絵柄。白凰の指摘通り、ぼくが探していたカードそのものだ。初出も古く、癖のある能力から人気が出ず再生産もされなかったため、市場にはほとんど出回っていない。もしコレクションの一部に加われば、デッキの拡張に一役買うかもしれないと、密かに考えていたのだった。かといって、オークションサイトを使用するほどに喉から手が出るほど欲しいわけではなかったので、なんやかんやと時機を逃し続けていた。よもやこの様な場所で遭遇するとは。ひょっとすると、法外な価格を設定されているから、誰の手にも渡らなかったのではないか。疑惑の目で小さな長方形をひっくり返したが、値札はどこにも貼られていない。
「この辺りのカードは、全部五円みたいだ」
「ハッ! ガキの小遣いにもなりゃしねえ」
 ラベル作業すら厭われるような待遇だとは。ストレージを熱心に漁ったところで、売れ残りのカード群との戯れにしかならないのが関の山だ。だが時折こういった具合に、モノの価値を知らぬ者が手放し、同様に無知な輩が売り捌いてくれるのだから、馬鹿にできない。よくよく見張れば、他にも目ぼしいカードが何枚か転がっていたので、まとめて回収した。狭苦しい紙箱の中で埃をかぶるより、カードにとってもマシな待遇だろう。

 店を出ると、太陽が爛れたような色合いの大気が、天を覆っていた。夕焼けと夜空が溶け合い、移り変わろうとする狭間だ。空間の明度がぐっと落ち込んだ分、先程よりもイルミネーションが際立っていた。電飾から放たれる粒子は、二重にも三重にも拡散し、光があちらこちらへこぼれ落ちていく。
「夜、早くねーか」
「冬は夏場よりも、日の出ている時間が短いからね」
「そんなジョーシキは知ってるっての!」
「じゃあ、その原理は」
「てめーは知ってんだろ、じゃあぼくも知ってるってことだ……」
 マフラーとマスクによって隠された口元で、ぼそぼそと呟く。雑踏の中では、ぼくの会話も掻き消され、意味をなさない。
ふと、みぞおちの辺りに違和感を覚えた。胃の底の方が落ち着かない。肺から腰にかけて、胴体の真ん中が空っぽになった気分だ。そういえば、デッキを調整し終え、部屋を飛び出してからなにも口にしていない。意識した途端、唾液とも違う分泌液が、舌の奥から滲み出るような錯覚がした。
 ちょうどフードエリアに突入したためか、人間の食欲を刺激する匂いがどの店からも漂う。あれはテイクアウト専門店。今回はとっとと食事を済ませたいので用はないが、多様なメニューには心惹かれる。チェーンのカフェでは、喉の渇きは潤うが胃が膨らまない。どうしたものかと彷徨っていると、白凰が意気揚々と声を上げた。
「あったかいものにしようよ」
「どういうリクエストだよ。せめてジャンルを指定しろ、洋食とか和食とか。あったかいって、この時期の飯は大抵熱持ってるだろ」
 奴の無責任な発言に、つい目眩を起こしかける。こいつは普段、あったかいか、もしくはつめたいかの区切りで夕食を決めるのか。ショップで暖を取ったにもかかわらず、みるみる冷えていく身体を思えば発言の意図は理解できるが。
「フッ……じゃあ洋食かな」
「オイ、今笑ったろ」
 イエスともノーとも返答はなかった。人を鼻で笑う癖は、相変わらずのようだ。もっとお淑やかに笑えと奴から注文をつけられているが、従来通り無視を決め込もうと心に誓う。
とにかく食事の傾向は定まったので、余計に頭を悩ませることはなくなった。ディナーメニューを軒先に掲げた、とある洋食店に目がとまる。大きな窓の向こう側では、小さく静かな晩餐が繰り広げられていた。大人数の団体客もおらず、かといって侘しすぎない、適度な様相のレストランだ。
 内部は暖色のランプによって照らされ、すべての陰影が長く深く落ちている。ウェイターに案内されるがまま、奥まった二人席に腰掛けた。卓上のやたらと細長い冊子を捲る。細かいフォントが窮屈そうに並び、週替わりのメニューを表していた。オニオングラタンのスープが付随するらしい。胃袋から温まること間違いなしだ。適当にオーダーを済ませ、背もたれに身を委ねる。軟弱なクッションの反発が、脱力した身体を支えた。厨房へ自身の注文が伝達されていくのが聞こえる。
「パックでも開けて待っていたら」
「それもそーだな」
 鞄から袋を取り出し、中身を引きずりだした。コレはイマイチ、コレはまあまあ。三袋目を開けた辺りで、白凰が声を上げた。
「それ……」
「あん? 欲しかったのか?」
「いや、勝舞くんが話してたなあって」
 そう言われてみれば、あの烈火の如き男が言及していた覚えがある。手元には、火文明をサポートする新規のカード。熱苦しい絵柄と豪快なテキストは、まさにアイツが好みそうな代物だ。
「なら、今度会った時にでも渡してやれ」
「そうだね! 喜ぶだろうなあ、彼」
 ぼくのデッキと白凰のデッキ、両方ともこのカードを投入するには、相性が悪い。どうせなら活躍の場を与えられるプレイヤーの元へ届いた方が、全員にとって損が少ないだろう。新たな戦法で挑んでくる勝舞も、この目で見てみたい。至極打算的な理由を起点とした発言にもかかわらず、白凰の機嫌はひどく上向きだった。
「てめーが貰うわけじゃないのに、ナニ喜んでんだ」
「それはね、友達にプレゼントできるし、きみが……」
 不自然な区切りで、文章は途絶えた。考えあぐねているのかと思い、暫く残された言葉を待ったが、奴はうんともすんとも言わなくなった。耐えかねて続きを催促する。
「ぼくが、なんだよ」
「え? いや、ヘソを曲げそうだからやめとくよ」
「余計気になるだろーが!」
他人の感情に鈍感なコイツが、今更な発言だ。途中まで話を持ちだされて中断されれば、誰だって気にかかるに決まっている。
「分かったから、声は抑えてくれ」
 白凰がさも慌てたような口ぶりで、ぼくを窘めた。確かに、店内を揺蕩うジャズの調べに紛れ込むとはいえ独り言は目立つ。わざわざ実際に発声せずとも相互に会話は可能だが、自然と口に出てしまうのだ。それにしても、まるでぼくが煩いガキのような言い草である。不本意にも注意を喰らったばかりなので、激しく叱責はしないが、腹は立つ。
 そうこうしていると、タイミング良くスープが提供された。空になった水も交換され、残り十分ほどでメインディッシュが完成すると告げられる。ぼくは行き場をなくしたエネルギーを食事に変換することとした。スープの蓋を開けると、閉じ込められていた湯気が一斉に逃げ出し、顔を包んだ。熱を失った皮膚が、じんわりと緩み、ほぐれていく。飴色になるまで炒められた玉ねぎに、コンソメ、ペッパー、パン、チーズ。一緒くたにして、スプーンで大きく掬い上げた。
「おっ、案外美味いぜ」
 空腹状態であるせいか、平素よりも味蕾の受け取る情報が多い。手足が温まっていくのが、感覚として分かる。寒くて腹の減った時に食べれば、大概のものは絶品に感じるやもしれない。
「さっきの」
「あん?」
「途中で言いかけたこと」
「そうだ、勿体ぶらないで早く言えよ」
 唇の端へ飛んだ液体を、舌で舐めとる。このメニューは割と気に入った。今度誰かに作らせてみようかと、軽く思案した。白凰は、一音一音を噛み締め、確かめるように話した。
「ぼくが嬉しかったのはね、きみが……きみが自分から、勝舞くんになにかをしてあげようって言えたからなんだ」
「はっ……なんだよ、それだけか」
 一体どんな馬鹿げたことを語るのかと半ば期待していたが、とんだ肩透かしだ。
「勝舞が強くなりゃあ、ぼくらにとってやりがいってもんが増えるだろ。それに、これは貸しになる。てめーが考えてるほど性善説な動機じゃないぜ」
「それでも十分だよ」
 白凰の言葉尻は、目の前でスープに浸るパンよりもふにゃふにゃで、蕩けていた。それこそ黄昏ミミあたりが聞いたら卒倒しそうなほど、甘ったるい肯定だ。白凰はいつもこうして、ぼくの保護者ぶる。ぼくの一挙手一投足に対して、顔を青くしたり赤くしたり、大忙しだ。少しばかし羽目を外せば、世界の終末がついに来たとばかりに悲嘆に暮れる。今のように意に沿うような行動を見せると、初めて立ち上がった赤子を褒めそやすより大袈裟に歓ぶ。もはや、ぼくが白凰の反応に振り回されている気分だった。奴の表情は伺えないが、もし意識を交代したら、だらしないニヤケ面を間違いなく晒すことだろう。
 白凰とのやり取りに胸焼けがして、思わず黙り込んだ時に、丁度メインのプレートが運ばれてきた。ハンバーグにサラダと、お子ちゃまな内容物ではあるが、中々に上質な出立ちだ。柔らかくも身の詰まった肉に銀の刃を当て、切り裂く。溢れ出る汁も取りこぼさないよう頬張っていると、ぼくの方へ向かってくる人影に気付いた。若い女二人と、同年代ほどの男が一人。近付いてくる三人組のカジュアルな装いを見る限り、店員ではないだろう。店内のスタッフは皆統一された白黒の制服を纏っているからだ。あえて素知らぬ顔で咀嚼を続けたが、ついにテーブルへ辿り着いた先頭の女が、声を張り上げた。
「あっ、あの、白凰さま……ですか?」
 ほら来た、ほら来た、ほら来た! 
 ぼくは盛大にため息を吐こうとしたが、予想されうる白凰の小言を想像するとゲンナリした。代わりに、招待されぬ客へ侮蔑の眼差しを与えた。
「……ホワイトだが、なにか用か」
 これみよがしに、フォークをハンバーグの中心へ突き刺す。分厚い楕円を貫き、三本に分かれた先端が皿に接触した。鈍く高く響いた金属音を聞いて、一瞬怯んだようであったが、それでも三人は平然とぼくへ語りかけてきた。
「私たち、たまたま外を通りかかったんですけど、奥に見える人って、白凰……ホワイトさまじゃない? って、思わず入ってきちゃったんです」
「そうそう! お食事されてるところ、初めて見ました。こちらって常連さんなんですか?」
「オレ、中継とかでしか知らなかったから、こうやって生で会えるなんて思ってなかったー! サイン貰ってもイイっスか?」
 三者三様に言いたいことをそのまま伝えてくるものだから、酷い有様だった。ぼくの耳は二つ。それも、左右バラバラに音を拾うために付いているでのはない。
「そんないっぺんに色々聞くな!」
「ホワイト、怒らないで。こういうファンの人って多いんだ」
「フン、きちっと対応してやりゃあイイんだろ」
 思う存分に羽根を伸ばしていたというのに、どうしてこうも邪魔が入るのだろうか。折角のディナーも、外野と共に過ごせば台無しである。かといって、真正面から失せろと言い放つわけにもいかない。前に熱心なファンに囲まれた際、適当にあしらったせいで白凰に延々と苦情を入れられた。耳がおかしくなりかけた、あのトラウマを繰り返さないためにも、それなりに返事をせねばならない。ぼくの発言を待ち望み、目を輝かせる三人を睨む。シーザードレッシングのたっぷりかかったレタスを噛み砕き、なるべく感情を平坦にして答えた。
「食べながら話させてもらうぜ」
「きゃっ、はい、ぜひぜひ!」
「この店はぼくも初めて来て、まさに食事中。あと、悪いがサインは特に書いてねえ」
 黒マーカーを片手に、私物の鞄をもう一方の手で抱え、今か今かと体勢を整えていた男が、ショックのあまり仰け反った。ぼくに限らず、名の知れた決闘者がサインを求められることはままある。凝った署名を拵える奴もいれば、一般的な書体で押し通す奴もいる。ぼくたちはどちらでもない。今回であれば三人ばかしなので全員に書こうと思えば書けるだろうが、何十人、何百人と囲まれた際には、誰かしら漏れてしまう。ならば、はなっからサインなど行わなければ良いのだ。善意から不平等が生じるのであれば、意図した孤立によって平等を保つほかあるまい。それに、自分の名を軽率に他者へ与えることへの、僅かばかりの抵抗感も否めなかった。何度も何度も叫んでも、ぼくの名は届かなかった。誰の胸にも。なにも知らぬ部外者から強請られたところで、満足など出来ない。
「そう落ち込まないでよ、ホワイトさまがお話してくださってるんだから」
「だ、だな。超一流プレイヤーと、同じ空気吸えてるだけで感謝しなくちゃ」
 闖入者の喚き声は、店内の視線を集めるのに十分な役目を果たした。一人きり、より正確に表現するのであれば二人きりで過ごしていた十数分前が、嘘みたいだ。あちらこちら、他の客からウェイター、キッチンに引っ込んでいるはずのコックまで顔を出し、ぼくらを観察している。まさにこのシチュエーションを嫌って外出したというのに。くるくると長い髪を巻いた女が、すっとぼけた言い方でぼくに問いかけた。
「あのー、答えづらい質問かもなんですけど」
 そうと承知しているなら、自分の胸の中に仕舞っておけと一笑に付してやろうか。あえてなにも答えず、肉の欠片を呑み込んだ。ぼくの無関心な動作を是認と捉えたらしく、女の追及が開始した。
「ホワイトさまって、白凰さまとは遠いご親戚って話じゃないですかー」
「……ああ、そうだっけか」
「ちょっと、変にボカさないでよ」
 黙りこくっていた白凰が口を挟む。突っ込まれたところで、どういった返答が最適解なのか。ぼくを公表するにあたり、初めは真っ赤な他人としてメディア等に伝えていたと聞く。だが、顔つきも体つきも当然同一なのだから、流石に無理があった。瓜二つだとかソックリだとか、そういった程度を飛び越えて一致しているので、他人ではなかろうと世間で噂が飛び交ったのだ。これではかえって不要な詮索を許すと、でっち上げの設定が次々に付与された。いとこ同士やらはとこ同士、幼馴染云々かんぬん。結局、パニクった関係者が最後に考え出したのが、遠い親戚という説明だった。なんやかんやで、今はこのステータスに落ち着いている。ああも無駄に人員を抱えているにもかかわらず、もっと上手い取り繕い方を誰も思い付かなかったのか。遠い親戚って、なんだ。遠いのにそんなにソックリなんですか、と余計に好奇心を掻き立てやしないのか。当初は日々やきもきしていたが、次第にどうでもよくなってきた。
「それで」
「お二人って、ご一緒にいるところ見たことないんですけど、白凰さまと決闘されたりするんですか?」
「ああっ、ワタシもそれ気になってたの!」
「年齢も同じなんスよね。やっぱりライバルって感じっスか」
 ああだこうだ、よくコメントが湧き出るものだ。これが水や石油であれば役に立つだろうに。肉を切り分けつつ、該当の思い出を探った。
「白凰とねぇ」
 一人回しの応用で、何度か奴とは決闘を行った。ターンが切り替わるたびに席を移動していたので、側から見れば随分と間抜けな絵面だっただろう。手札も互いに筒抜けであるから、特殊な環境にはなってしまったが、存外に恙なくプレイできた。今でも時折、適当な相手が見つからない際には対戦している。
「やるっちゃやるが、どっちかっていうとデッキの相談の方が多いかもな」
「うわーっ、トップ選手同士でそんなんされたら、もう敵わないっスよー」
「やだっ、お二人とも仲良しなんですね」
 ぼくはつい、白目を剥きかけた。コイツらと同じ言語を使用していると思い込んでいたが、勘違いだったかもしれない。ただデッキ構築の助言を交わすだけで仲良しこよしと認定されるのならば、大概の決闘者同士はオトモダチだ。
「どういう思考回路してんだ。白凰からチクチク細けーこと毎日言われてみろ、もうたまんねーっての」
「言われるような振る舞いをする、きみに非があるんだからね」
 間髪入れず、攻撃が飛んできた。おかしい、味方であるはずの陣営に、反乱因子が紛れ込んでいる。ハイハイ皆さんが憧れてやまないらしい白凰くんは、ここにいますよ、見えも聞こえもしないだろうけれど。
「毎日って、そんなに二人とも話してるんスか」
「意外ー!」
「詳しく詳しく!」
「話すもなにも、四六時中一緒だっつの……」
 ぴーちくぱーちく喧しい三人衆へ何気なく呟いた言葉。十倍にも百倍にもなって、また質問が返ってくるかと思ったが、当のファン達は大きく瞬きを繰り返すばかりだ。一様に口をぽかんと開けている。途端に静かになったものだから、怪訝に思ったのも束の間、自身の失言に気付いた。まずい、ぼくは今なんと放った?
「ホワイト! 妙な情報を教えちゃダメだ、きみのプロフィールは秘密なんだから」
 白凰の切羽詰まった声は、掻き消された。ミュート状態になっていた目前の三人が目覚め、矢継ぎ早に問いかけてくる。許容できるデシベルを、メーターの針がぐんと上回るのが見えた。
「ええっ、それってつまり」
「お二人とも住まいがご一緒なんですか」
「白凰さまのプライベートエピソード的なの、なんかありませんか」
 鼻息荒く迫ってくる三人につれられ、遠巻きに見学していた人々も、じわりじわりと距離を詰めてきた。檻に閉じ込められ、安全圏内からちょっかいを出される猛獣より、惨めな気分だ。
だが、ここで本心を曝け出すわけにはいかない。控えめに、穏やかに、恭しく。当たり障りのないコメントを返さなければ。喉の奥が渇く。一口だけ、底に残っていたスープを含んだ。ハンバーグはとっくのとうに食べ終わっていたし、サラダも胃の中だ。初めはあんなに旨く感じた夕食の味も、朧げだった。腹は無事に満たされたのに、ひどく虚しい。
「ホワイトさまっホワイトさまっ……」
「そうそう、白凰さまって……」
「僕にも聞かせてください……」
 異様な熱気を孕んだ集団のエコーが、ぼくへ覆い被さる。握りしめたナイフが、小刻みに揺れた。違う、カトラリーが動いているのではない、ぼくの拳が震えているのだ。ホワイトさま、白凰さま、ホワイトさま、白凰さま、教えて教えて、二人を教えて、まるっとすべて、骨の髄まで、歪んだ心を教えて教えて。目が、無数の目が、ぼくを追う。てんでばらばらな、まとまりのない人間たち。だのに、一様に浮かべた感情は同じだ。奇特なものを珍しがり、畏れ、悦ぶ。下卑た眼差しが、ぼくを舐め回す。ぼくを通して白凰を知ろうとするな、白凰を通してぼくを知ろうとするな。そもそも一体全体、どうして己の領域に踏み込まれなければならないのだ。誰が土足で入り込めと頼んだのか。
 はらわたが煮え繰り返り、目の前は真っ白になった。ホワイトさま、白凰さま、ホワイト、白凰、教えて、見せて、出して、ホワイト、白凰、ホワイト、ねえ、あなたって一体誰なの?
「あああっ! うるせー!」
 瞬間、大きな衝撃音がした。それはぼくの鼻先から五十センチほど先の、フロアから生じたものだった。見やると、男が倒れ込んでいる。尻餅をついたようだ。月に導かれて潮が満ち、引いていくように、人が後ずさっていく。血の気を失った人々の表情をぐるりと見回して、納得した。ぼくはいつの間にか立ち上がり、ホールで絶叫していたのだ。テーブルへ叩きつけた掌の神経が、じわりじわりと疼く。豹変した様相に気圧されたのか、全員が怯えた目付きをぼくへ向けていた。小さく舌打ちをし、無様な格好の男を引っ張りあげてやった。
「おい」
 呆然と事の成り行きを見つめていたウェイターを呼びつける。
「はっ、はい、如何いたしましたか」
「食後のデザートまだだろ。早く持ってきてくれ」
「承知いたしました、今すぐにっ」
 宣言通り、即座にフロアへ戻ってきたウェイターが運んできたのは、小ぶりなパフェだった。滑らかな隆線のバニラアイスは、暖色の灯りが照り返し、オレンジ味のような見た目に染まっている。チョコソースとバナナ、ブラウニーその他諸々の、オーソドックスなチョコレートパフェだ。中身を掻き回す度に鳴り響くグラスの音が、静まり返った店内へ広がっていった。

その後どうやって帰宅したのか、ぼくはまったく覚えていない。白凰も途中からの記憶がすっぽ抜けているようで、腑に落ちない結果となった。
 瞼を閉じれば、イルミネーションの淡い幻影だけが浮かび、揺れ動いて拡散していく。ぼくは何故、自分がああも激昂したのか理解できなかった。白凰と間違われたことが気に食わなかったのか。自分だけの時間すら損なわれることが煩わしかったのか。どれも理由の一つにはなり得たが、核心には至らないような、もどかしさを覚える。
 そもそも、この外出により得たものはなんだったのだろう。目当てのカード? 温かな食事? どれも正解ではあるが、ぼくはもっと普遍的な事実を学んだ。衆愚の脳は、単純明快な物語を好むということだ。ぼくのこと、白凰のこと、兎にも角にも知りたがる。だが、真の意味での解明を望んでいるのではない。奴らは、快適なストーリーが欲しいのだ。楽しくて、面白くて、ゆったり身を任せられるような、お菓子のお供に丁度良い話を求めている。誰も、ぼくらの解くに解けない因果の糸を辿ろうとはしない。所々で絡まり、複雑に乱れ、もつれ合う二本。教えてと請われたとて、なにを伝えればいいのか。一番ぼくたちを知らないのは、ぼくたち自身なのだから。そして、この奇妙な繋がりを最も究明したいのも、紛れもなくぼくらであった。

「あっという間だねえ」
 さも楽しげに、弾んだ声を上げるのは白凰だ。隣に座った勝舞が、車窓にへばり付きながら答える。
「ホントな! オレ、ガチですげーデッキ組めたんだぜ」
ガラス一枚を隔てた先の景色は、すべてが白く染められ、空と大地の境目すら曖昧になっていた。端的に例えるならば、銀世界である。
「私だって、前より磨きがかかってるわ!」
「みんな、良い試合になりそうで嬉しいよ」
 バックミラー越しに、ハンドルを握ったナイトが後部座席を見やった。前列には白凰と勝舞、後列には黄昏ミミと角古れく太、真ん中にジョージ。助手席にはDr.ルートを乗せ、エンジンが唸りを上げる。新調したてのスタッドレスタイヤは空気圧を高めに設定され、雪に埋もれた路面を確実に捉えた。
 苦い後味となった街歩きの日から、あっという間に一週間ほどが経過していた。要は、例の大会の前日である。近頃にしては珍しくお仲間たちのスケジュールが一致したこと、会場が公共交通機関ではアクセスの悪い立地なのも相まって、全員でまとめて出発する運びとなった。天地とかいう男だけは、会場の近くに私有の邸宅があるとかで同行しなかったが。
「それにしても、随分と辺鄙な場所じゃあねえの」
 ジョージが歳の割に低いトーンで呟く。
 発言の通り、真っ直ぐに伸びた旧道を突き進むこの車以外に、目を惹く物体はない。黒く痩せた木の枝と積雪のコントラストばかりが印象に残る。何キロか走行すれば、ちらほらと飲食店や民家が現れるが、どれも褪せた色合いをしていた。うんざりするほど平坦な街だ。角古れく太が短冊形のマップを展開し、現在地周辺を指でなぞる。
「地方の、それもかなり山奥ですからね。まだホテルまでは一時間ほどかかりますよ」
「えーっ、結構走ったのに、マジか?」
 前方からの絶え間ない吹雪に夢中になっていた勝舞が、思わずため息を吐いた。手跡をべたべたと窓に付けたまま、体勢を変えて角古れく太のマップを奪い取る。だが、地図の見方が分からなかったのか、目的地の見当がつかなかったのか、暫く格闘したのちに、元の持ち主へマップは返却された。
 初めは高速道路、途中からは下道に切り替えて走行を続けているが、確かに長時間のドライブである。今日はこのまま、会場付近に用意された選手用のホテルで宿泊し、翌日に正午から開始される試合へ出場する段取りだ。
「次にコンビニとかあったら行ってくれよー」
 勝舞が情けない声で懇願する。明らかに尿意を催した様子で、先ほどからそわそわと落ち着きを欠いていた。
「勝舞くん、またお手洗い?」
 きっちりとお手本のようにシートベルトを締めた白凰が、穏やかに問いかけた。
「仕方ないだろ、生理現象ってやつだし」
「でも、次にいつ立ち寄れるか分からないんだから、あまりジュースは飲みすぎない方がイイって、ぼく言ったよね」
「ぐっ……言うよなー本当……」
 これっぽっちの悪意も含まない助言に、勝舞は苦笑いをして唸った。
 前もった警句にもかかわらずガブガブとホットドリンクを浴びるライバルへの、再度の忠告。それは純度百パーセントの善意で構成されている。だが、作成者と受け取り手の認識が一致することは稀だ。優しい優しいアドバイスを頂戴した相手は、二十パーセントばかりの傲慢さとアクセントの独善性を味わい、片道通行の施しに顔を歪める。白凰と長い付き合いの勝舞であるから、よくある日常のやりとりにしか映らないだけだ。さてさて、勝舞は別として、白凰に盲信的に付き従う奴ばかりを見てきたが、果たして気付いているのだろうか。無邪気な支配の根底を流れる、絶対的な自負と誇り。それはダイヤモンドのように硬く割れやすい、危うい面を持ち合わせていることを。
「やめよやめよ、他のこと考えてないと、いよいよヤベーから。ほら、ホテルのメシとかさ」
 勝舞が気を紛らわすように、わざとらしく大きな声を上げた。カーラジオの電波にはノイズが混じり、山中の変化に乏しい環境を延々と移動してきた連中にとって、それはひどく刺激的なテーマだった。
「朝のバイキング、スイーツが凄いらしいの」
「どこかのフロアに、選手専用のラウンジがあるって誰か言ってなかったか?」
「ほー、そいつぁ美味いミルクが出そうだな」
「ルームサービスで地酒が出るそうじゃから、ワシはそれで十分じゃのー」
「あっ、僕お父さんにお土産買っていこうと思ってたんです」
「なら、大会終わりに探そうか」
 六人が思い思いに口を出し、元々煩かった車中はさらに賑やかさを増した。
「みんな、明日は大事な大会なんだから、落ち着いて休息を取るんだよ」
 目線と意識は道路に向けたままで、ナイトが諌める。小学生や中学生だった頃のぼくたちと接し方が同じなのは、哀しむべきか有り難がるべきか。
「んなこと分かってるからさーっ、ナイトさんも、なんか楽しみなこと言ってみてよっ」
 勝舞が拗ねたように強請ると、ナイトは四六時中身に付けているサングラス越しに、目を細めた。
「うーん、そうだなあ……あ、今回の大会関係者は、貸切の露天風呂が使えるって聞いんだ。これは気になるかな」
「うっそー! 貸切で、露天」
「勝ちゃん、ニッコニコじゃないですか」
「そりゃそうだろ! だって、貸切露天だぜ!」
 カシキリとロテンしか言えなくなったのか、というぐらい勝舞は同じ単語を繰り返し、小躍りしている。奴が跳ね上がるたびに、連動して白凰のシートも揺さぶられた。
「よし、まずは全員で浴場に直行だ!」
 思わず白凰にぼやいてしまう。
「おいおい、やけに張り切ってるが、ただのフロだろ?」
「些細なことでもめいいっぱい楽しみを見出せるのは、彼の美点だよ」
 また語弊を招くような言い回しである。しかし奴とぼくの会話が周囲に聞こえるわけでもない。破顔した勝舞が座席から身を乗り出し、白凰の肩に手を回した。
「なっ、なっ、白凰も一緒に行くよなっ」
「ええ、ぼく?」
 躊躇いがちな声色を遠慮と受け取ったのか、オトモダチ想いの熱血が、語気を強めて勧誘を続ける。
「だいじょーぶだって、貸切なんだから、オレとれく太と、ジョージ……も流石に男湯だな、あとナイトさんにDr.だけだぜ」
「あ、ありがとう。でも、ぼくは」
「白凰さま! ここの温泉は中々珍しい泉質で、一部のマニアの間では秘湯として知られているらしいですよ」
「やーんっ、みんなズルい!」
 渋い反応の白凰に対し、角古れく太と黄昏ミミが元気よく加勢する。当の本人は、あーだのうーだの母音だけを発して、どう合理的に、かつ婉曲的に断るか懊悩していた。
「おい、もっとシャキッと言わねえと伝わんないだろ、コイツらには」
「ううん、いや、でもね」
「はあー。ホラ、どいたといた」
 狭い密室空間に嫌気がさし、少なくともホテルに到着するまでは引っ込んでいるつもりだったが、我慢ができなくなった。
「てめーら、ぼくも白凰も、風呂は部屋で済ませるからほっとけ」
「ホ、ホワイト……!」
 前面へ出てやって、白凰自身が伝えるべきだった言葉を届けてやる。簡潔に、直接的に。車両後方から、引き攣れたような悲鳴が聞こえた。黄昏ミミだ。頭だけで振り返ってみれば、想像通りの表情を貼り付けていた。私は犠牲者です、あなたは捕食者です、と責め立てる目だ。
「おっと、言っとくがぼくは代弁してやったんだぜ。まあ、ぼくも他人と同じ湯に浸かるシュミはねぇから、共同声明ってところか」
 過去も現在も未来においても白凰という人物はただ一人だと、まやかしを信じ込んでいる女は、渋々といった様子で頷いた。日数が過ぎ、過去が遠くへ離れていっても、こういった連中との溝は埋まらない。
「なんだよ、ホワイトも入りたくないのかよーノリ悪いぞー」
 石のように固まった後部座席などお構いなしに勝舞が、変わらずぼくを説得し続ける。この男は本当に、いついかなる時も確固たる軸が通っている。
「ノリが軽いんだよ、てめーらの。んなベタベタと裸見せ合って、なにが楽しいんだか」
「別にイイじゃん、男同士なんだし、ハダカのツキアイってやつ?」
「そういうのがイヤなんだっての」
 色々と脳内で想像してしまい、軽く吐き気がした。百歩譲って勝舞ならともかく、どうして他の野郎と一緒に湯浴みをせねばならないのだ。なんらかの罰ゲームとしか思えない。誰であれ、無防備な姿は見せたくなかった。
「夕飯ぐらいは一緒に行くんじゃねえの、これで十分だろ」
「うーん、まあ、無理強いしても仕方ないよな、悪かったなホワイト!」
 あっさりと身を引いた勝舞は、明日の大会へ話題を切り替えた。これまでの速攻とはレベルが違うだのなんだのと、陽気に語っている。硬直していた他の連中の口元も、自然と緩んだ。Dr.ルートだけはいつもの如く、厚い瓶底眼鏡で思惑を隠していた。
白凰の、しょぼくれた声が響く。いかにも申し訳ないといわんばかりの、覇気のない言い回しだ。
「すまない、ぼくが言うべきだったのに、きみに全部」
「んな大層なことじゃねーっての」
 白凰が、全員の機嫌を損ねないような最善の返答を捻り出すのをまともに待っていたら、ホテルに到着してしまっていただろう。まったく、落ち着かない風呂の時間も、馬鹿騒ぎの宴会も苦手だ。どんな夜になることやらと、うだうだと考えていたら、なんだか面倒くさくなってきた。やるべきことは終えたので、ひとまず白凰と意識を交代しよう。狭苦しい車内で緊張が走るより、広大な精神世界にて佇んでいる方が、心穏やかである。

「はい、それぞれ無くさないようにね」
 代表してチェックインを済ませたナイトが、各員にカードキーを配る。最上階は丸々選手用として確保されているらしい。他の宿泊客と不用意に出会わなくて済むのは、単純に嬉しかった。告げられた夕食の時間までは、随分と間がある。ホテル内の施設といえば、食事の会場と、寂れた土産コーナーぐらいだ。暇つぶしも兼ねて、他のメンバーは足音を揃え露天風呂へと向かっていった。
 割り当てられたルームナンバーを探し、同じ番号の扉を開ける。地域が地域なので、あまりグレードには期待していなかったが、一人では持て余すほどの室内だった。椅子が無駄に四脚も置かれているが、ぼくの腰は一つしかない。ティーセットの置かれた棚には、見慣れた名前から妙な横文字まで、色々なティーバッグが並んでいた。側にあったケトルの上蓋を取り、中を覗いてみる。こまめに洗浄されているようで、いたって清潔だ。トイレもよし、シャワー室とバスタブもよし。割かし、満足のいく空間である。
「ちゃちゃっと湯溜めるぜー」
「よろしく」
 準備が整うまでの間に、バニラのフレーバーティーを淹れてみることとした。普段はほとんどがストレートで、たまにミルクを足すぐらいなので、どんな味わいなのか少々不安がよぎった。恐る恐る嗅いでみると、甘ったるい香りが鼻を抜けていった。まあ、悪くはないだろう。ちびちびとカップの内容物を啜りつつ、デスクに置かれた周辺地域のパンフレットや、ホテルの紹介冊子を漫然と読み流す。初めに大会への出場を打診された際には、どこかで耳にしたような、やっぱりしていないような、といった具合の印象の地域だった。それは今も変わらない。地元の料理を提供する定食屋や、居酒屋、ラーメン屋、絶景ポイント、謎のモニュメント。諸々の情報が簡略化され書き込まれた案内を見下ろした。
「どっか気になるとこあるか?」
「んー、その十三番……いや、やっぱり二十二番……」
 便宜上スポットに振られた数字を、白凰がぼくの瞳を通して感じ取る。
「変わってんなあ、八番とかがメジャーなんじゃねえの」
「強いていえばってトコだよ。ならばきみはどうなの」
「じゃあ二十五番」
「フフ、それこそ変わってるよ!」
 中身のない会話を重ねる内に、バスタブの中は湯で満たされた。
 スーツのボタンを外し、シワにならぬようハンガーにかける。肩の部分までキッチリ合わせておかないと、白凰の怒りを買うのだ。シャツを脱ぎ、ボトムから足を抜き、みるみる身軽になっていく。適温に設定しておいたシャワーを頭から浴びれば、明快に心地よかった。髪を伝い、額を滑り落ちる水流が目に入らぬよう、瞼を強く閉じる。真っ暗な視界の中で、浴室のライトが朧げに透けて見えた。シャンプー、コンディショナー、フェイスウォッシュ、ボディーソープと順に使用していく合間に、目まぐるしく思考の矢は飛び去っていった。今頃だだっ広い浴場でスキップでもしているのであろうライバルのこと。明日に控えた試合のこと。想定されうる対戦相手のこと。各々を深く追おうとしても、光のようにすり抜けた。脳がドライブからニュートラルへ、緩やかにギアシフトする。
 ホテル一棟と街を覆った雪と、同じ色の湯船に身体を預けた。再び目を瞑り、わざと脱力してみせる。日常生活において、完全に手足から力を抜くシーンはそうそうない。入眠時ですら人はどこか緊張してしまう。湯の浮力。換気扇の低く回る音。頬から液面へ垂れる水滴。下がっていくのか上がっていくのか、方向感覚を失った全身は、ただふわふわと漂う。やはり勝舞には申し訳ないが、露天風呂の誘いは断って正解だった。ぼくと白凰以外の者が傍にいては、ここまで没入することができない。どこまでもぼくが広がっていくような、しかし意識が冴えわたり際立つような矛盾を感じる。ずうっと過去に、似た環境に身を置いていた気がした。そうだ、きっとこれは、あたたかな羊水の記憶だ。ゆらりゆらり。ぷかりぷかり。遠い遠い、確かな安らぎ——。

 さて、他の連中と動きを合わせるため、意識的にゆったりと湯に浸かったつもりだ。しかしメンバーは露天風呂から未だに帰還していないようだった。このまま部屋で篭っていても、手持ち無沙汰である。髪もとっくに乾かし終えた。既に大会に向けてデッキは登録済なので、調整等も不可能だ。興味もない番組を流すのは癪に触るし、無目的に待機するのも性に合わない。結局、夕食の指定時間まで辺りを散策していると、勝舞宛にチャットメッセージを残すことにした。
「とはいえ、せいぜい三十分ぐらいしか歩けないよ」
「いーんだよ。ボーッとしててもつまんねぇだろ」
 時間制限付きの彷徨は、かくして決行された。
近くの市街地までは比較的近く、往復でも十分程度しかかからない。わざわざ市街地と呼ぶほどの繁栄具合ではないが。ともかく、そちらの方面へ歩いてみて、頃合いで帰ってくればよいだろう。一度読んで放り投げていた、周辺の案内パンフレットを拾い直す。ホテルの正門から出て、大通りを左に曲がり、そのまま直進する形が、最もシンプルなルートのようだった。目印となる建物の名称を頭に入れ、一階のロビーへ降り立つ。ぼくに気付いたフロントの女が他のスタッフを呼び寄せ、玄関まで見送ろうとしたので、ちょっぴり辟易した。選手が出たり入ったりするたびに付き添っていたら、人員が足りないだろう。もてなす側の自己満足に近いホスピタリティは、気持ち悪い。ぼくにあれやこれやと勝手に希望を託し、勝手に失望する輩と同じだ。一方的に向けられる感情、その忌々しき形状を、ぼくと白凰は知っている。すぐに戻るから構わないでくれと断り、回転扉をくぐった。
 夜になり切る前の、半端な時間帯だ。帰路は真っ暗な中になるかもしれないと思いつつ、ホテルの敷地を飛び出す。鋭く澄んだ空気に、つい最近訪れた、とある街が想起された。ありきたりな言葉で飾るなら、ロマンチックな通りだった。そして苦く哀しい影が、煌めきの向こう側に居座っていた。纏わりつく妄念を払い除けるように、コートを翻す。
「かなり降ってんな」
 オフホワイトの上着から、パウダー状の雪が舞い散った。水分量が少ないのか、衣服に付着しても手で払い除ければ簡単に落ち、濡れることもない。寒冷な土地では、すぐに水っぽく溶けてしまう雪ではなく、このような粉雪が降るのだと聞いたことがある。
「初めて体感するかも。さらさらしているから、気持ちいいね」
「そーだな。道も歩きやすい。てか、案外寒くねーな」
「カイロを一応持ってきたけど、明日は使わなくても大丈夫そうかな」
「いや、朝は冷えるって誰かが話してたぜ。ひとまず貼っといて、暑かったら剥がせばいーだろ」
「オーケー。あ、足裏用のも用意したんだ。他に、長いマフラーと、厚めの手袋も。忘れずに使わないと」
「雪山でも登る気かあ~? 大袈裟じゃねーの……」
「ダメダメ! 首、手首、足首っていうでしょ。こういう箇所をキッチリ防寒対策すると、効率的なんだよ」
「分かったけど、ポンポンの着いたのは勘弁してくれよ」
「ポンポンってなに」
「前に着てたろ、ケセランパセランの親玉みてーなのがぶら下がったロングコート。モコモコしたファーもオマケについたやつ」
「あれ、結構気に入っているんだけれども。きみは違うの」
「悪かねーけど……」
「ああっ、手袋、ポンポン付いてるよ。人からの頂き物だし、オシャレだから安心して」
「だーっ、言った側から。まさかとは思うが、マフラーって」
「うーん、ポンポン付いていたかも」
「おいおい、これじゃ毛玉だらけだ。歩くたびにポンポンポンポン、間違いなく気が散る」
 しょうもない、をとっくに通り越した会話を打ち合い、雪道を踏みしめた。無風なので体感温度はそう低くないが、不思議と俯きがちになっていく。汚れのない積雪と、交互に前進する自分のブーツが視界を埋めた。
「ねえ、ホワイト!」 
「まだサプライズがあるのか? ポンポンの三つ付いた耳あてでも登場しそうで怖いぜ」
「違う違う、そんな仕方のないことじゃなくて、前!」
 ふざけた冬服を取り揃えてきたのはそっちであるのに、随分と身勝手な王様だ。言われるがままに面を上げ、ぼくはたまらず仰天した。
 本当に、心の底から驚愕した際には、ギャアだのワアだの、発声すら不可能なのだ。身体が一瞬で硬直して、なにも出来なくなる。どこか冷静な自分が分析したが、混乱はますます深刻なものとなった。
 先ほどまで歩んでいたはずの大通りが、消え失せていたのだ。
 それだけではない。設置間隔が広すぎる、頼りない電柱の明かり。数百メートル向こう側の、曖昧な街の光彩。あるはずの風景は跡形もなく立ち去り、ただ寂寞たる雪原のみが彼方まで広がっていた。

「こ、これは……マジかよ……」
 咄嗟に来た道を振り返ったが、視界は変わらない。それどころか、出発したばかりのホテルすら見当たらないではないか。
「日が沈む時間では、まだなかったのに」
 剣呑な白凰の疑問に、ぼくは頷いた。たかが十分ほどしか経過していないはずだが、辺りはすっかり夜。遠景に浮かぶ山並みのシルエットは、空の明度より遥かに低く、黒い。切っ先のように鋭い稜線が、ぐるりとぼくたちを取り囲んでいた。ここはいわゆる盆地なのだろうか。針葉樹が所々で身を寄せ合い、小さな林を形成している。高低差のない、平坦な雪景色を見回した。まばらに舞い落ちる雪片により、滲んだ月影がぼくらを照らす。いや、地形の把握などと悠長なことをしている場合ではない。そもそも、いつの間にこのような場所へ迷い込んだのか。迷い込む余地があるのか。いくら片田舎とはいえ、歩道を辿っている間に進路が狂うわけがない。たとい方向を著しく間違えていたとしても、一切違和感を抱かずに、突き進むだろうか。ぼくも白凰も、どちらも気付かなかったのは、相当の異常事態である。
「ひょっとすると、現況は遭難と表現すべきかな」
 真面目腐った言い振りだが、疑問の余地はなかった。歩いてきた方向も、向かうべき方角も最早判然としない。これを迷子として取り扱わず、なんと呼ぶのか。かといって自分たちが置かれた危機を正しく認識したところで、事態が好転するわけでもない。
そういえば。コートの右ポケットをまさぐると、ひんやりとした四角い板が入っていた。一応連絡を受け取れるよう、携帯電話を文字通り携帯しておいたのだった。しょっちゅう忘れては周りにどやされている白凰とは違う。マップでも起動すれば、すぐさま人を惑わす雪の魔術から解かれることだろう。意気揚々と画面をタップする。スクリーンの左上、電波と通信状況を示すスペースには、見慣れぬ文言が表示されていた。白凰がご丁寧に読み上げる。
「……そ、と?」
 そと。接続が難しい状態であるならば、圏外といった単語が示されるはずだ。だのに、一切のアイコンもなく、そと、とひらがな二文字だけが書かれている。
「てめーのカスタマイズか?」
「ぼくがやると思う?」
「いや」
 即答した。
「なら聞かないでおくれ」
「悪い悪い」
「それにしても、妙に引っかかるなあ、そと、か」
 そと。外。一体、なんの外側なのか。メッセージアプリやブラウザを立ち上げてみたが、案の定回線に繋がらない。電波の外。人里の外。通常の外。珍妙なステータスの意味合いは図りかねるが、ぼくたちからの発信は不可能に近いことは判明した。
とはいえ、無闇矢鱈と動き回るのは悪手だ。なにかしら目標となるオブジェクトがないか、目を凝らし周辺を点検する。月夜、雪化粧、山嶺。どこか妙な引っ掛かりを覚えるほど、粛然としていた。遭難に至る具体的な経緯も、現在地の座標も、一旦は後回しだ。突破の手がかりをくまなく探す。
 かくして、数分と経たずにぼくたちは『ヒント』と出くわした。
 前方に、なにかがいる。頭上の星々とも違う、とろりと溢れ出すような光だ。小さな小さな輝きの点が、雪原の向こう側に見える。それも無数に。他に目ぼしい発見もないので、近付いてみることとした。
 なるほど、遠くからの観察では正体不明だった丸い光源は、いわゆる提燈であった。厚く折り重なった雪に対し、斜めに鉄製の棒が突き刺さっている。その先端に吊り下げられ、煌々とその身から明かりを放っていた。血液の色味よりもいくらか穏やかな朱の提燈は、規則正しく二列に配置され、等間隔で並んでいる。その行列は平原の遥か彼方まで続いた。
「ハンッ……あからさまに怪しいぜ」
 グレースケールの視界には、あまりにも馴染まない球体たち。目には見えない道を縁取り、おいでおいでとぼくたちを招待しているみたいだ。
「明らかに、特定の意図をもって設置されている。ただ……誰が、なんのために、こんな場所に誘導灯を拵えたんだろう」
「住民が迷子になんねぇように、ってわけでもなさそうだしな」
 止むことのない降雪により、空気は霞んでいく。行燈の表面に手を翳してみたが、暖はとれなかった。和紙の繊維に軽く触れる。おかしな仕掛けが組まれている気配もない。ますます不可解さの濃度が増した。透明な腕がぼくたちを絡め取り、未知の領域へ連れて行こうとしているような気色悪さが否めない。かといって、このまま立ち往生するのも苦しい。とどのつまり、見るからに異様な提燈の手招きに、応じる他なかった。
「仕方ねえけど、結構ヤバいんじゃねーの」
「かもね」
 切迫感の欠片もない返事に、ほんの少し乱されていた自分たちのペースを取り戻した。幸いにして、街中にいた時よりも冷気は和らいでいた。真夜中の銀世界を、緩やかに徘徊することとしよう。行燈が作り出す道は時折カーブを描きつつ、深く深く雪原の奥へ続いていく。これがもし、人の手によって案内板がわりに備えられたものであったら、どれだけの労力を要するのだろうか。いっそのこと、橋なり道路なりを掛けてしまった方が楽にすら思えた。
「ぼくたち、化かされてる?」
「かもな」
「これが古典的な昔話なら、暫くすると民家に辿り着くところだね」
「そんで、中から妖怪みてーなババアが出てきて、一晩泊めてくれるってか」
「家主の手には、血の付いた包丁があったり」
「次の朝、起きたら家なんか無かったりな」
「それで、助けに来てくれた人たちに話しても信じてもらえない」
「お決まりの流れだ」
他愛もない空想だった。食事と睡眠の場を提供してくれる怪異なら、こちらとしては大歓迎だが。
 十中八九、雪で遭難。深刻なシチュエーションであるはずなのに、両者揃って実感が湧かなかった。半歩だけ隣の別世界を彷徨っているような具合だ。やがてぼくたちの歩みの先に、朧げな家屋の影が音もなく現れた時、ぼくは考えた。我々の直感は存外馬鹿にならない、と。斯様な土地に、民家などが存在しうるだろうか。動物の気配すらしない、生きているとも死んでいるともつかない空間に。万が一物好きが住み着いていたとしても、その拠点への道筋を、ふざけた小細工で彩るだろうか。ああ、どれもこれも合理的ではない。まともに現実の文脈で解決しようと試みても、徒労に終わりそうだ。ぼくたちは単なる雪原ではなく、奇妙な空間に迷い込んでしまった。そう仮定してしまった方が、ひとまずは腑に落ちるくらいだ。
 目前に待ち構えていたのは、それこそ子供に道徳心を植え付けようと必死になって聞かせる昔話にでも登場しそうな平屋だった。茅葺きの屋根には薄らと雪が重なっている。鋭角の斜面には、そう多くは堆積しづらいのだろうか。建物からは一切の物音がせず、一筋の明かりも漏れ出ていない。人の営みから離れ、時が止まったような風体だ。
「嫌な予感がするんだが」
「たとえば」
「ようこそ、ってババアが顔出す」
 言うや否や、閉ざされていた正面の玄関口に、僅かな隙間が生じた。横にスライドするタイプの扉だ。指一本を差し込めるかどうか、というほどの幅しか開いていないので、家屋の内部は確認できない。
「このような夜更けに如何しましたか」
 狭間から、乾いた声がした。喉元が震えた、弱々しい老女のものだ。
「ガチかよ」
ババアが出てきそう、とは述べたが、出てきて欲しいとはこれっぽっちも願っていない。
「どうする、応答するかい? それとも回避して次に行く?」
「あまりこちら側から積極的に反応したくはない。だが、提燈もこの家で途絶えてる」
「となると、実質的に選択は一つ、か」
 暗黒に向かって、経緯を返す。無論、警戒は怠らずに。
「いきなり道に迷ったんだ。灯りを辿ってみたら、ココに着いたんだが」
「左様でございましたか」
 カラカラと戸が溝を滑り、やがてすべてが開け放たれた。ぼくらを出迎えたのは、想像の通りに小柄な老婆であった。こちらを見つめる瞳に、敵対心は込められてない。そこら辺の街中でもすれ違っていそうな、ごくごく普通の人間だ。だが、あまりにも凡庸な印象なのが、かえって不気味である。老婆は、髪に肩に雪を被せたままのぼくの顔を、下から覗き込んだ。見上げられているにもかかわらず、えもいわれぬ圧迫感を覚える。
「あなた様……これはこれは……」
その後の台詞が中々続かない。妙な間は、幾分か時間を挟み、奇妙な沈黙へと意味を変えた。
「……な、なんだよ?」
「オホホ、失礼いたしました、いやはや、実に素敵なお客様ですこと」
 一転して可憐な笑みを浮かべ、老婆はそそくさと廊下へ擦り歩いていった。ぼーん、ぼーん。すっとぼけた時計の残響が、壁に染み込んだ。古ぼけた床板の木目は、消失点へ向かって延々と繰り返されている。老婆が振り返り、動けずにいるぼくへ呼びかけた。抑揚のない、どこか無機質な語りだ。
「今晩から明日にかけて、雪となります。お泊まりになった方がよろしいかと。腕によりをかけますから、お夕食もどうぞ」
 ここで、思わず「ほら見ろ!」と叫ばなかったぼくを褒め称えて欲しい。なにからなにまで、ふざけて白凰と交わした妄想通りに事が運んでいる。お次は、この老婆の正体が山姥だと判明でもするのだろうか。いい加減にしてほしい。白凰は他人事のように「すごい、ピッタリそのままだ」と感心している。こちらもいい加減にしてほしい。はてさて、ぼくたちは家の奥へと引き込もうとする老婆の正体を知らない。のこのことお誘いのままに、ハイじゃあ一泊させてください、ちなみに飯が美味かったらおかわりもイイですか、なんて言いたくはない。しかし、ここまで来たからにはとことん付き合ってやるしかないだろう。
「外は心細かったでしょう。さあ、中にお入りください。お二人とも」
「……!」
老婆の放った最後の一言に、目を瞠る。今、コイツはなんと呼んだ? お二人とも? 当たり前のことをわざわざ噛み砕いて反復する必要もないが、あえて明確に言おう。ぼくと白凰が身体を共有し、異常な同居生活を過ごしていると把握しているのは、一部の人間だけである。この老婆がなにを指してぼくを二人と表現したのか。それは推測に頼らざるを得ないが、大概ぼくと白凰のことのはずだ。見るからに知り合いでも関係者でもない他者が、突如として核心を突いてきた。けたたましく脳内で警報が鳴り響く。対照的に老婆の佇まいはいたって平穏そのもので、早く一歩踏み出せと言外に訴えている。ああだこうだと、ここで立ち止まってもいられない。踏ん切りをつけ、ぼくは上り框に足をかけた。 

 老婆の案内に従うがまま、通されたのは客間であった。外観のイメージ通り、質素な和室だ。やけに光沢のある座卓の上には、煎餅の山ほど盛り付けられた籠が置いてある。脳裏で白凰が小さく呻いた。はしゃぐ場面ではないと承知はしているが、耐えきれなかったらしい。部屋の障子に手をかけ開け放つと、いわゆる広縁と呼ばれるスペースが広がっていた。ご丁寧に二脚も椅子が用意されている。窓から視認できる景色は限りない雪原と、濃い闇夜、曖昧な満月のみだ。時たま白い破片が窓に張り付き、後から降ってきた同類に背中を押され、ずるずると滑り落ちていく。さながら草臥れた旅館のような空間である。
「お食事がご用意できましたら、お持ちいたします」
 ぼくたちの返事も待たずに、老婆は部屋を後にしてしまった。廊下から聞こえる、靴下と床の接触する音は徐々にフェードアウトし、やがて消滅した。つい、大きく息を吐く。張り詰めた緊張の糸が、ほんの少しだけ弛んだ。
「チイッ、完全にあのババアのペースだ」
「そこは同意だけど、きみ、先ほどから言い方が悪いよ。お婆さん、だろ」
「白凰さまの日本語教室開いてる場合かよ!」
 まさか老婆がご丁寧に盆を運んでくるまで、仁王立ちで待機するわけにもいかない。煎餅を籠ごと回収し、広縁へ移動した。LEDではない和室の照明は仄暗い。雪の側の方が、淡く月光によって照らされる分、明度が高いように感じる。個包装のパッケージを引き裂くと、薄っぺらくて丸い米菓子が二枚飛び出した。塩味と醤油味らしい。ぼんやり、よもつべぐい、と物騒な言葉が頭をよぎる。異界の竈門で煮込まれたものを食べれば、身も心も元の世界には戻れなくなるのだ。だが、ぼくと対峙しているのは、工場で生産されたいかにも商業的なスナックである。これを口にしたところで、形而上学の地底へ誘われるとは思えない。怯えるのも馬鹿馬鹿しく、二枚とも同時に噛み砕いてやった。喉を通り、空いた胃へ咀嚼した物体が降りていくのを感じる。そういえば、順当に過ごしていれば今頃はホテルで夕食を取っていたはずだ。どうしてこんなにも時化た和室で、腹の足しにもならない煎餅を貪っているのか。
「まったく、行儀がなってない。膝を立てて食べないでくれ」
「他に誰もいないだろ。相変わらずだな」
 そうだ、見方を変えてみれば、至って穏やかなこの個室は、ある種理想的とも呼べた。ホテルでの夕食会など、参加すれば間違いなく煩わしい交流に巻き込まれる。ぼくからすれば、ちゃんちゃら可笑しな事実だが、切札勝舞を筆頭に、知り合いのほとんどは今や名の知れた決闘者だ。関係者ですら握手だのサインだのと浮き足立つ。酔っ払いも混ざれば、会場は一気に無礼講と化すだろう。人と人との間に設けられた障壁が壊された時、待っているのは不粋な介入だけだ。先週に訪れた、あの街だって同様だったではないか。ぼくはぼくとして過ごしていたいのに、やれ白凰だのなんだのと茶々を入れられ、気を散らされる。いっそのこと、この迷家のような空間の方が神経を逆撫でされずに済む。周りの人間は、あの老婆だけだ。実に油断できないババアではあるが、こちらを無闇に詮索してはこない。
 だが、ぼくの背後に佇む白凰は異なる。ぼくから言わせてみれば、奴は完璧主義な罪人だ。誰よりも道徳と信義を尊重し、誰よりも高みを目指し、そして誰よりも不自由な男。振り解きたくなるしがらみに、喜んで縛られている。白凰は、決して白凰らしくないことを述べられない。他者からの干渉が鬱陶しいだの、面倒臭いだの、身勝手な発言は高邁な精神が許さないのだ。よって、奴はぼくの「ホワイト」らしい所作に対抗する。それが「白凰」だから。
「みんな、どうしているだろう。ぼくたちが急にいなくなって、パニックになっていないかな」
 白凰が、さも悩ましげに呟く。嘘偽りない本音だろうが、本当にそれだけなのか。それだけで、いいのか。奴の行動原理は不可解極まりない。
「……後でババアに電話でも繋いでもらうか。無理かもしれねーけど」
「そうだね、試してみよう」
 食事会はともかく、このままでは明日の大会に出場できるかすら不明だ。今回は白凰が参加登録を行なったので、ぼくが対戦できるわけではないが。白凰選手、当日に忽然と失踪! 現地住民の語る、魔の雪原とは? などと、つまらない見出しのニュースを掲載されても困る。とにかく現状を一通り報告し、今後の指針を検討したいところだ。つらつらと考えながら次の袋へ手を伸ばしたが、掴んだのは虚空だけだった。見やると、食べ尽くしたゴミが散らかっている。
「ちょっ、ちょっと。ぼくも食べたかったのに。分かっててやっただろう」
「ちげーって! 気が付いたら無かったんだよ。家にも神殿にもストックあんだろ。んな怒鳴るなっての」
「ぼくがいつ怒鳴ったって?」
 実に冷淡なトーンだ。半目でこちらを睨みつける白凰の顔が想像できる。蟻ん子のようにワーワー集まる、周囲の人間共には限りなく温厚なのに。消化されていく煎餅を追いかけても仕方ないので、話題を変えることとした。
「それにしてもババアおせーな、全然来ねえ」
 だらだらと、三十分ほど経過したように思われる。正確な時刻を測っていたわけではないので、あくまで体感ではあるが。
「ン……そんな直ぐには作れないものだよ」
「ろくに料理しないのに分かんのかあ?」
「やれやれ、きみだってやらないじゃない。まあでも、確かにやけに時間を要している気がするね」
「どうする、辺りを調べてみるか」
「うーん……」
 石橋を叩くどころか、材質を調べ、耐久テストを行い、何人か歩かせた後にようやく渡ろうとする白凰は、ぼくの提案に乗り気でなかった。
「てめーは慎重すぎる。トラップでも警戒してんのか? 忍者屋敷でもあるまいし」
「しかし、ぼくたちはこの家のマップも知らないんだよ。元のこの部屋に戻れなくなったら、どうするんだい。あのお婆さんが親切に見つけてくれるという確証もない」
「ヒャハハ、ビビってばっかだな! まー、白凰ちゃまが怖がっちゃあ可哀想だからよお、あんま遠くには行かないでやるよ」
「いや、ジッとしててよ!」
 喚く白凰をBGMに、椅子から立ち上がる。さてさて、多少の探索で勘弁してやらねばと思っていると、音もなく襖が引かれた。間からひょっこりと老婆が顔を出す。
「おっ、ようやくお出ましか? 待ちくたびれたぜ」
これで、わざわざ捜しに行かずに済んだわけだ。しかし、肝心の返事がない。老婆は頭を動かすことなく、眼球の動きだけでぼくを捉えた。眉を八の字にして、なにか訴えたげな様相だ。早く中に入ってこないのかと訝しむ。
仕方なく老婆の元へ歩み寄ってみると、襖の向こう、廊下の暗がりに潜む右手の先でなにかが光った。ほとんど台所に立たないぼくだって、その物体は知っている。こまめに手入れされた滑らかな刃。いかにも切れ味の鋭い、小ぶりな包丁だ。
「っておい、貴様!」
 すぐさま後方へ飛び退き、間合いを確保する。老婆は意味ありげに微笑を湛え、滔々と語り始めた。
「いやあ、なんせ久方ぶりのおもてなしですから、下拵えに手間取ってしまいましてねえ。あとほんの少しかかるのですが、こうも侘しい家でしょう。その間、ただお待ちいただくのも失礼ですから、趣深い場でもご案内しようかと」
「そうか……ちなみに、右手のその物騒なモンは」
 銀に輝く身には、所々赤黒い跡がへばりついている。寝惚けた赤子にだって分かるだろう、上下左右どこからどう見ても血液だ。白凰が、また言った通りだ、と独りごちた。そういえば、あのろくでもない仮想とまたしても一致している。
「あらいやだ、わたくしったら。すみませんねえ、ふと気が付いてお客様に早くお伝えしなくては、と慌てておりました。新鮮な魚を捌いていたのですよ。ちょっと生臭いかしら」
言われてみれば、魚類の放つ独特な臭いが微かにした。白凰はあからさまに安心しているが、ぼくは思わず眉間に力が入る。このババアは人をおちょくっているに違いない。
「危なっかしいからとっとと仕舞え。んで、ご案内云々の前に一つ頼みたいんだが」
「はい、はい。ご友人へのご連絡でしょうか」
 こちらが用件を伝えるまでもなく、老婆は頷いた。流石に驚愕したぼくに、得体の知れない老婆が続ける。
「オホホ、お宿へは、既に一報をお入れいたしました。存外雪が積もってしまったので、今は車を出せないそうです。明日の早朝、お迎えに来て下さるとのことでしたよ」
「お、おー……」
 怪しすぎる振る舞いをしてみせたかと思えば、今度は怒濤のファインプレーである。可能であれば直接、ぼくが勝舞たちやホテルの者へ事情を説明したかったが、まあよいだろう。
「こ、このお婆さん、何者なんだ……」
 珍しく白凰がドン引きしている。出会い頭からして、ぼくらのことはまるっとお見通しです、と言わんばかりの対応であった。ここまでくると、気味の悪さを通り越して、なすがままに任せたくなる。
「さてさて。わたくしは調理に戻ります。よろしければ、裏の泉でも見に行かれては」
「それがてめーのおススメってか?」
「ええ、ええ、そうですねえ。古くからこの土地で信仰されている、不可思議な泉なのです」
 こんな雪の日、それも夜に行ったところで、大した感動は得られないだろう。どこまでが夜空で、どこまでが泉なのか判然としない予感がする。第一、ぼくは熱烈な自然愛好家ではない。折角の提案ではあるが、それなら部屋の中でぐだぐだと寝転がっていたいところだ。だが、いつまでも包丁を手放さない老婆の右手から目が離せない。万が一この老婆が襲い掛かってきても軽くいなせる自信はあるが、無駄に不興を買う必要もないだろう。
「そこまで行って、ワーきれいきれい、って写メって、帰ってくることには夕飯が完成してるっことかよ」
「まさに、その通りでございます」
「所要時間は」
「本当に、この家のすぐ後ろですからねえ。二分もせず着きますよ」
「ハア。随分な景勝地なんだろうな」
老婆は、理由もなく声を抑えて答えた。まるで内緒話を打ち明けるかのように。
「水面を覗き込むと、本当の己の姿が映る、という伝説が」
「……ププッ、伝説ゥ?」
「ねえ、不興は買いたくないって言ったのは、どこのどちら様かな」
「悪い悪い、だってよお」
 唐突に雪原で遭難! 迷い辿り着く謎多き日本家屋! 歓待する老婆から告げられる泉の伝説! まったく、三流オカルト雑誌のコラム欄より酷い。本当の自分もなにも、それ以外が映っては大問題だろう。光の反射によって表面に結ばれた像は、寸分の狂いもない自分自身でしかない。
「お婆さん、ぼくたちに行って欲しいみたいだね」
「んじゃ、とっとと済ませるか。おい、案内しろ」
「い、い、か、た」
「……案内してもらえるか」
「この廊下を左にずっと進みますと、無地の襖にぶつかります。なんの絵柄もない戸です。そちらを通れば、あとは泉まですぐ、でございますよ。くれぐれも別の襖はお開けになりませんよう。では、私は厨房へ向かいますので。お気をつけてください」
 言うが早いか老婆は廊下へ引っ込み、すたこらと奥へ歩いて行った。ぼくたちも部屋から一歩踏み出し、向かって左側を見やる。和室の照明と同じぐらいしょぼくれたライトが、点々と天井に設けられていた。
「頼むよ、気を引き締めて」
「それはてめーもだ」
 廊下の左右に並ぶ襖は、どれもこれも完全に閉め切られている。冬に咲く花や、鳥、野を駆けまわる生物が意匠として描かれていた。それにしても相当の部屋数だ。
「大会のため、ただ前乗りしただけなのに、こうなるとはね」
「とんでもない土産話ができたな」
「誰がまともに取り合ってくれるのさ、一体」
「白凰が疲労でぶっ飛んだと思われるだろうな」
「分かっているなら、お土産は破棄したまえ」
 軽口を叩く白凰の語調はどこか弱弱しかった。
「……大会が気になんのか」
「それは勿論。ホテル側の方も相当の大雪らしいから、ひょっとすると中止になってしまうかも、とか色々とね」
「これよりデッカイ試合なんて、これからたっぷり出来るだろ」
「大会の規模は関係ないんだ。勝負の舞台に立つのが、ぼくの役目だから」
 おお、至って平常運転だったようだ。相変わらずの決闘馬鹿、法則馬鹿。ぼくは対戦相手があんまりに雑魚だと嫌気が差して、ちゃちゃっと終わらせたいと考える。反対に、白凰は最後まで決して手を抜かない。その代わりに手加減もできない。どんな相手にも、どんな戦いにも、白凰は全身全霊で身を投じる。本当に、おかしな男だ。
「天候不良で取りやめになれば、すぐにJDCが代替試合を用意するだろ。いつもの対応を思い出せよ」
「うん、そうだね、心配はいらないか。ありがとう」
「うおっ、鳥肌立ったぜ」
「どういう意味なの! ああもう、きみには勿体ない言葉だったね。取り消します」
「あいにくキャンセル不可だ」
 ぎゃあぎゃあ頭の中で言い合っていると、突き当たりにぶつかった。ババアの指示通り、他の襖とは異なる真っ白な戸が真正面にある。そっとずらすと、なんと屋外に直結していた。忘れかけていた雪景色が、悠々と横たわっている。このぼろっちい平屋へ導かれた時と同じく、無数の提燈が頭を垂れ、路を示していた。
「ええ、普通はもうワンクッションあるもんだろ」
「あ、ぼくたちが脱いだ靴が」
 意識を足元に落とす。確かに玄関へ置いてきたはずのブーツが、揃えて置かれていた。さあ、後は履いて、案内のままに。老婆のしゃがれた声が容易に再生される。
「これ、どういうジャンルの体験なんだよ」
「ホラーとかオカルトかな」
「うーん、でも現状パンチ弱くないか。ババアに第二形態があって戦闘とかあればやべーけどな」
「それってもうアクションじゃない? 強いて例えるなら、ミステリーとか」
「謎を解く名探偵も、仕掛けた犯人も、一体誰だったのか不明のまま終わりそうだがな」
「あ、ちゃんと両手を使って履いてよ、きみ。適当に足を突っ込むと形が崩れるから」
「初めておつかいに行くガキかっての!」
 ショート丈のブーツには、うざったいぐらいに紐が付随している。一つ一つ丁寧に縛ってやり、足首を軽く動かした。変に窮屈ではない。きつすぎず緩すぎず、良い塩梅に調整できた。ぼくは提燈の灯りに引きずられるがまま、再び雪の世界へ歩みだした。

ぷかぷか、ゆらゆら、存在の重みを感じさせない光の玉。まるで人魂のような提燈の道案内は、ついに終着点へ到達した。事前にイメージしていた通り、どこまでが空で、どこからが水なのか明瞭ではない。しかし、眠たげな月光が水面を朧げに浮かび上がらせていた。雪、夜空、月、灯り。白、黒、白、赤。夢の中から抜け出せないような心地がする。じれったくも、どこか穏やかな。
「本当の自分ねえ」
「なにが映ったか、細かく教えてくれ。ぼくもきみの中から確認できるけれども、見え方に差異があるかもしれないから」
「ノリノリじゃねえの」
「単純に知りたいだけだよ。どういう仕組みなのか」
 ぼくは膝をつき、泉の縁に手をかけた。波もなく、完全に水面は凪いでいた。勢いをつけ、上体を屈める。

 そこには、ぼくがいた。

 髪も、顔も、服装も、なにもかも。ぼくそのものだ。身だしなみを整える際に、ぼくだって鏡ぐらいは確認する。洗面台を使用すれば、嫌でも自分の姿は目に入る。朝の支度、夜の支度。これまで幾度となく見てきた、自分自身だ。左手で、頬に触れてみる。タイムラグなどあるはずがなく、対峙するぼくは右手で頬をさすった。
「期待しすぎたみてーだな。ただ、ぼくが映ってるだけだ」
 水面のぼくは眉を顰め、唇を尖らせた。本当の己の姿が映る。よくもまあ、大ぼらを吹いたものだ。どうせ、水の反射やらなんやらで普段とは異なって物体が映り、住人がそれを泉の神秘だと勘違いしたのだろう。
 それにしても。こうもまじまじと、自分を見つめる機会はあまりない。鏡写しの線をなぞる。ぼくという人間は、こういう形をしているのか。見れば見るほど納得のいくような、しかし違うような、あやふやな葛藤を覚える。
 ふと、微細な雪の粒がひらりと舞い降りた。仏頂面の鼻先に触れたかと思うと、波紋が生じる。どれだけ軽く小さなきっかけであっても、簡単に均衡は破壊されるのだ。調和など幻想でしかないと、嘲笑って。揺れ動く水面で、ぼくの輪郭も絶え間なく形を変える。形状が、色彩が、集まり離れていく。やがて揺れは収まり、虚像の再構築が完了した。ぼくは、首筋を冷たい汗が滑るのを感じた。
 先ほどまで「ぼく」がいたはずの水鏡に、どういうわけか「白凰」がいたからだ。
 視覚的な情報に一切の変化は生じていない。ぼくも白凰も、外形的特徴は同一だ。だのに、脳は水面の青年を「白凰」と認識している。「ぼく」ではない。ただ「白凰」が、目と鼻の先にいた。
 これはどういうギミックなのだ? 
 言語化の範疇を易々と超えた、非合理的な現象である。ぼくと同じ造形の男は、口を小さく開けていた。僅かに垣間見える肉色の舌も、その胡乱な表情も、すべてが「ぼく」ではなく「白凰」のものだ。理由も根拠もへったくれもない。まともな説明が可能であるならば、誰か教えて欲しいくらいだ。この、心臓の奥底をしっちゃかめっちゃかにされるような気分を、目の前の謎を、どう語ればよい。
 確かに「ぼく」であるはずなのに「ぼく」ではない青年が、ぼくに訴えるような眼差しを向けている。随分と昔、Dr.との定期カウンセリングでの質問を思い出す。鏡に、自分以外の人間が映った経験はあるか、と。対応していた白凰は苦笑して、そんな体験はこれまでも、そしてこれからも無いだろうとあしらっていた。しかしDr.は至って真剣な面持ちで、病症の一例として十分に起こりうるので、実際に体験したら抜かりなく報告するように、と戒めた。なんでも、自分が他の誰でもない自分自身であるという一貫性を失うと、自分の姿を見ても他人として頭が理解してしまうらしい。よもや、馬鹿馬鹿しくも未だに続くカウンセリングに、新鮮な話題を提供できるとは。当のクソボケDr.は、遭難先の泉で白凰に出逢ったと語られて、素直に信じるのだろうか。それこそ、いよいよ狂乱したと大事になるかもしれない。入院沙汰はこりごりである。
 音もなく、もう一片の雪が、今度は鏡像の「白凰」の前髪に貼りついた。静止した水は運動を与えられ、また揺蕩う。次に映ったのは、なんと「ぼく」であった。混乱に陥りつつ、どこか冷めた自分が肩をすくめる。「ぼく」も「白凰」も、どちらも容貌は一緒ではないか。もし客観的な第三者がいて、一部始終を眺めていたとすれば、こう供述するだろう。泉には初めから、一人の青年しか映っていませんよ。ああ、そう、その人です。必死になって水面に顔を近づけている、その人と同じ顔の子。
「白凰、白凰!」
 ぼくはたまらず、背後から見守るもう一人を呼んだ。意識の微睡みから目覚め、白凰が応える。
「きみにはなにが見えたんだい」
 確かに、奴の声が聞こえる。鏡像ではなく、ぼく自身から。思慮深い口調、中性的な残響、掠れた語尾、どれも間違いなく白凰の声だ。
「ぼくには、まずぼくが見えた」
白凰が息を呑んだ。
「次に、てめーが映った」
「ぼくが」
「そうだ。見間違いかと思ったが、暫くすると、またぼくに戻った。だが、水が振動して表面がぐちゃぐちゃになる度、ぼくとてめーが入れ替わって映る」
 言った側から、また水紋が同心円状に生まれる。ぼく、白凰、ぼく、白凰。
「頭痛くなってくるぜ……」
「ぼくはきみを通しているから、参考にならないかもしれないが、最初に映っていたのは、ぼくだったよ」
「あん?」
「次にホワイト。そしてぼく、ホワイト、その繰り返しだ」
「おいおい、見えてるモンがあべこべになってるってのか」
「そう、みたい、だね……」
 やけに歯切れの悪い白凰は、そのまま思考に沈んでいった。ぼくは立ち上がることもできず、泉を見つめ続けた。白凰、ぼく、白凰、ぼく。生気のない月光が、清浄なるベールを辺りに被せる。ぼくは白凰を、白凰はぼくを、泉の中に見出した。そして両者の影は重なり、ぼやけ、交錯する。本当の己を映す泉よ。お前は一体、誰をその水面に抱いているのだ。本当のぼくは、どれなんだ。

口の中に、ぶよぶよとしたものがある。不快な感触ではない。一体全体、なんだろう。舌先で突っつき、犬歯を当てると簡単に身が崩れた。柔らかくて、甘い。醤油、みりん、砂糖。色んな味がする。これは、この料理は……。中途半端に喚起された自我は、完全に立ち直った。右手には箸、左手には茶碗。座卓の上には、これでもかと大量の皿が並んでいる。端から端まで、微々たる隙間も許せないと言わんばかりに、大皿から小鉢までぎっしりと。刺身の盛り合わせに天ぷら、焼きもの、茶わん蒸し、酢の物、そしてとびっきり巨大な魚の煮つけ。
「ほら、美味しいでしょう」
 とろけていく煮物より甘っちょろい声。白凰だ。どうやら食事の最中に、人格を交代したらしい。
「なんだよこれ」
「お婆さんが、沢山作ってくれたんだよ。特に、今の煮つけなんて絶品だ。これぐらいの甘じょっぱい味付け、好みだろう」
「う、お、おう。うめーけど、まあ」
「食べきれないぐらいあるから、ゆっくり堪能させてもらおう。後日お礼をしなくてはね、寝床も用意してもらったし」
 部屋の隅には、いつの間にか布団が敷かれていた。やたら準備の良い老婆である。熱い茶を一旦挟み、息を吐いた。
「泉の後、記憶が全然ねえ」
「やっぱり奥で寝ていたんだ。あの後、いきなりきみが交代して、呼び掛けても返事がなかったんだよ。うんともすんともね。和室に戻ったら、お婆さんが全部運んでくれたのさ」
「ふーん……」
 睡眠時を除き、意識が断絶することは滅多にない。直前の記憶が、田舎臭くも豪華絢爛な食卓の上に蘇る。柔肌のような雪に囲まれ、ぼくは「本当の己」とやらと対面した。ごぼうの炒め物を頬張る。普段のメニューは洋食がほとんどだ。無理くりに連れてかれる会食の場にて懐石料理を食べる機会もあるが、こういった家庭的な品々はかえって新鮮である。家庭生活、家族関係。とうの昔に無関係になった単語だ。
「ハア、やけに疲れたな」
「そうだね、ちょっと情報量が多すぎるかな。この数時間で」
「もう、メシだメシ。このアホみたいに盛られたメシに集中しよう」
「白米とお味噌汁は、いつでもおかわりしてイイって言ってくれたよ」
「んな食うかよ、主菜と副菜だけで手一杯だっての」
「そこのお野菜、はじかないで食べてくれ」
「慣れないんだよ。薄くてさあ、もっと醤油かけたい」
「おひたしだろう? そういうものだよ」
「てか、この魚ってなんだ? 食べたことのない味がする」
「舌馬鹿だなあ」
「てめー、交代する前に暫く食べてたんだろ。教えてみろよ」
「……あ、葉物もちゃんとバランスよく摂ってね」
「オイ! 話逸らすな!」
「うるさいよ。ほら、三角食べして。その煮つけばかり食べないの」
 同じ身体であるからには、味蕾の位置、刺激を受け取る脳細胞までも共有している。ぼくにとって分からない味は、当然奴にとっても未知だ。逆もしかり。それにもかかわらず、ぼくと白凰の食事の好みは一致しない。正反対とまではいかないが、微妙に異なる。精神と肉体には実に謎めいた領域があるのだ。決して明かされることのない世界が。
 ぼくも白凰も、提供された夕餉に夢中になった。夢中になったふりをした。ほんの少し前の体験には、どちらも触れなかった。正しい感想が、解釈が、どちらも固まらなかったからだ。本当の己。ごく一般的な人間、つまり一つの身体に一つの心を有する者には、なにが映るのだろう。ひた隠しにしていた、薄汚い本性か。はたまた、忘却の彼方へ置き去りにしていた、幼年期の思い出か。どちらにせよ、それは自分自身である。自分でない自分を相手に、こうも心臓や頭、はらわたの内側が落ち着かない体感を覚えるのは、ぼくと白凰ぐらいなものだ。
 人は、常に変わりゆく途上の存在らしい。身体を構成する物質は一定でない。新陳代謝により、ミクロ単位では昨日と今日の自分は違う人間なのだ。対象を広げていこう。口にするもの、身に付けるもの、住む場所、人間関係、自然環境、社会、なにもかもは動き続けとどまらない。思想も嗜好も信条も変わってしまうのならば、どうして自分自身だけは同じだと、妄信できるのだ。むしろ、なによりも不確定で不安定ではないか。Dr.の助言が、再び想起される。自分自身であるという一貫性、自己同一性、アイデンティティ。時間軸を芯として、揺さぶられることのない己。ぼくからすれば、これを心の底から信頼し、絶対に倒れなどしないと寄りかかる人間の方が恐ろしい。あまりに愚かで不遜だ。ぼくは心得ているし、これ以上ないくらい分かっている。自意識の儚い在り様を。
 ああ、分かっているのだ。水面に「ぼく」だけでなく「白凰」も映り込んだ含意を。優しい水の振動が奏でる、本当の詩を。ぼくは、ぼくだけでは存在しえない。白凰もまた、白凰だけでは存在しえない。ぼくらは互いがキーパーツとなっている。一人の決闘者として認めろと咆哮せど、その悲鳴は月に届かない。初めから、単独のホワイトも、独立した白凰も、いやしない。ぼくらはぐちゃ混ぜのまま、生まれてきた。
 ほら、だから言っただろう。自意識はかくも儚く、愚かで、惨めで、愛おしいのだ。

 食事を終えると、見計らっていたかのように老婆が皿を下げに来た。きみに任せるのは不安だと、白凰が表へ出る。とにかく一言が多い。ぼくだって場面に応じた立ち振る舞いは可能だ。面倒なのと、社交辞令が得意な白凰に一任しているだけで。餅は餅屋、交流は白凰。
「お婆さん、お夕飯ごちそうさまでした。とても美味しかったです、本当にありがとうございます」
「オホホ、まあまあ、お粗末さまでした」
 段取りよく空いた小鉢を重ね、盆へ移しつつ、老婆が笑う。
「貴方様とお話をするのは、初めてですね」
「え? あ、あの」
「オホホ、これは失礼。野暮な話でした。それでは、明朝にまたお会いしましょう。それまでごゆっくり、おくつろぎください」
 トレイの上には、ババアの背丈を悠に超える皿が積み重ねられている。皺の寄った細腕のどこにそんな力があるのか、ババアは平気な顔で立ち去ろうとした。咄嗟に白凰が近寄る。
「重いでしょう、ぼくも手伝いますよ」
「あら、嬉しいお申し出。しかし、お客様には安らいでいただきたいのです。どうぞ、お気になさらず。もう夜も深いですから……」
「でも」
 引き下がる白凰を振り切り、ババアは今度こそ、廊下の暗がりへ消えていった。
ぼくは白凰と意識を交代し、座卓を持ち上げた。邪魔にならないよう、壁際へ位置をずらす。空いたスペースに布団を移動してみる。煎餅布団だったら嫌だと考えていたが、見た目よりも上質な反発だ。これならば安眠できるだろう。枕も、硬すぎず柔らかすぎず悪くない。広縁の窓が視界に入るよう、向きを調整した。景色を眺めたところで、広がるのは一面の雪景色でしかないが、せめてものアレンジである。つまらん土壁を睨むより、月影の中で就寝した方が退屈しないだろう。
「意外とロマンチックなんだねえ」
「クク、てめーが言うかねえ、それ」
「なに、意地悪な笑い方して」
「いやあ、乙女チックって称されてたのは、どこの白凰くんだったかなってな」
「うわあ、そんなこと、よく覚えていたね」
「褒めてもなんもやらねー」
「一切褒めていないし、きみからなにを貰えるんだ。共通していない所有物なんて、それこそ数枚の服ぐらいでしょ。要らないよ」
「ほれ、もう寝ようぜ。急に眠たくなってきた」
 ぼくは天井からぷらんと垂らされた紐を引っ張り、消灯しようとした。けれども、頭の中で白凰が喚き散らす。
「食後すぐに寝るなんて、だらしない」
「あーハイハイ、かるーくストレッチして寝ますよ」
「胃に負担になるから、軽くだよ」
 畳の上で伸びをすると、腰のあたりが適度に引っ張られて快かった。足首をぐるぐると回してみる。他にも何種類か激しくない動きを試している内に、副交感神経が優位になってきた。
「ぼくはてめーと、万年結婚生活状態だよな、ある意味」
「……」
「いや、返事しろよ」
「ごめん、突拍子もない例えをするから。よそで言わないでよ」
「ほら、こんな具合にああだこうだ言われて、答えて、話してさ」
「永久的な同棲生活ってことね」
「ん」
「当たらずも遠からず、いや、まさにそのまんま、か……」
 肩を円状に回す。余程凝り固まっていたのか、関節から不穏な音がした。まあ、デッキの構築や試合内容の振り返り、他に依頼される講演の原稿執筆まで、最近の作業はデスクで完結しがちだ。立ち仕事はまったくと言っていいほどない。解説員としてイベントに呼ばれた時も、無駄にふかふかとしたソファに座らされた。机上で過ごす時間が長引き、知らず知らずの内に肩が内巻きになっていたのだろう。気を付けてはいたが、座り仕事が多すぎるのも悩ましい。決闘に携われる取り組みであれば大概は引き受けているが、もっと対戦がしたい。結局、ひたすらに楽しいのだ。戦いそのものが、勝利の快楽が。
「うー、結構あったまってきたな」
 足先まで、しっかりと血液が循環している。白凰からも床に就く許可が下りたので、ようやく和室の電気を落とすことができた。布団へ潜り込むと、いよいよ一日の終わりが予感された。肌触りの良い毛布が、ぼくの身体に圧し掛かる。今すぐ寝こけてしまうほどではないが、神経は睡眠に向かって最適化されていった。
 光源のない和室にとって、月は絶対的な威光を放っていた。無垢な明かりが、雪にじんわりと染み込んでいく。
「きれいだ」
 その呟きは、白凰のものだと思った。腑抜けた声であったし、感想を他の言葉へ変換することなく、つい漏れ出たコメントといった様子だったからだ。だが、白凰が同意の返事をしたので、ぼくは自分の声帯が震えていたのだと気付かされた。
「あまり見慣れないからかな。しみじみ、きれいだなあって感じるよね」
「おー……」
 ごくごく普通の雪原が眺望できるのみであるが、白凰はご満悦であった。ぼそぼそ、こそこそ、ひそひそ。誰もいやしないのに、不思議と声を潜めてしまう。白凰の囁きが部屋に、脳みそに渦巻き、耳を食む。
「雪って、光と音を吸って、ほのかに輝いているみたいだ」
「へえ? ぼくからしてみれば、夜の中に潜んでいるように見える」
「フフ、そうか」
 建設的ではない論議だ。答えも結論も、ありやしない。だが、世の中の大体の事象は同様である。どうにかこうにか主義を貼り付け、縫い合わせて偽りの決定を下す。そんな目論見に比べれば、実に平和な対話ではないか。
「雪が光をため込むから、白く浮かび上がるんだよ」
「全部吸い尽くしちまうから、雪夜は静かで真っ暗なんだよ」
 どちらともなく、笑い声がした。くすりと、空気が通り抜けていく。白凰の上品ぶった微笑が、ぼくは存外に気に入っていた。
雪という同一の現象を目にしても、ぼくは白き闇を、白凰は白き光を感じ取る。物事は、根本からして両義的だ。同じなのに、まるで違う、違うのに、そっくり。
「本当にどうしようもないな、ぼくたち」
「うん、同感だ」
どちらにせよ、雪はいずれ溶け合い、なにもかもが戯れと化す。
「そういえば……以前にも、似たような日があったね」
「ああ?」
「ほら、秋にさ。きみと神殿の部屋で、ずっとゴロゴロして」
「ああ~。あったあった」
「何故だか思い出してしまった」
「あの日も、こんなカンジの夜だったなあ~……」
 静寂の中、ぼくたちは物想いに耽った。
「ねえ、もう一人のぼく」
 白凰が、ぼくを呼ぶ。普段はきみだのてめーだのと、二人称が基本であるので非常に珍しい。
「なんだよ」
「ふと思ったんだ。今って十二月だね」
「今更かよ。年も変わるぜ」
「うん、でもそれより、もうすぐぼくらの誕生日だ……」
 ああ、言われてみれば。当該日が楽しみなあまり、指折りで数えていたのは遠い過去の話だ。自分の生まれ落ちた日と、同じ数字のカレンダーを有り難がる行事でしかない。だが、ぼくの誕生日とは、すなわち白凰の誕生日でもある。そう考えると、胸の奥が重くなって、息苦しくなった。一体いつから、こうもこんがらがった宿命を背負っているのだろう。白凰が、ぼくが、共に降り立った日。覚えているはずもないのに、瞳を閉じて追憶に浸る。
「忘れない内に言っておく」
「なあに」
「おめでとう」
「……きみも、おめでとう」
 それっきり、白凰からの発話は止んだ。どうやら眠りに就いたようだ。ぼくも徐々に、深く遠い意識の奥底へと、引きずり込まれていく。

 むかしむかし。神サマとやらは、一週間で世界を創ったらしい。
 どうせなら、もっとゆっくりと腰を据えれば良かったのに。ともかく、神サマは光と闇を分けた。昼と夜が現れ、水は上下に隔たれ、天と地と海が生成されていく。植物が根を張り、宙には太陽と月と星が浮かぶ。水に暮らす生きもの、空を飛ぶ生きもの、土を駆ける生きものが造られる。ついに人の子が生まれ、ようやく神サマは休んだ。実質的に働いたのは、六日間だ。ぼくは夢想する。ぼくたちは二人だから、三日で創れるかもしれない、と。寝惚けた頭が紡ぐ、実に馬鹿げた思いだった。
 月の光は青白く、すべてがうやむやになっていく。

その晩は、妙な夢を見た。
 普段は失神するように眠りにつくので、夢らしい夢などほとんど見た試しがない。ベッドに潜り込み、瞼を閉じ、体が柔らかく奈落へと沈み込んだかと思うと、眩しい空間へ弾き出され、気が付けば太陽の時間になっている。これが日常茶飯事であり、標準的な睡眠だからだ。だのに今回はさらに珍しいことに、夢を見ていると認識できる状態、いわゆる明晰夢というやつだった。
 ぼくは浜辺に立ち尽くしていた。重苦しい曇天の下、波と波がぶつかり、黒と白の飛沫が舞う。荒涼とした空気を、胸いっぱいに吸い込む。耳をくすぐる反響は、現実のものとなんら変わりない。すると、誰かの喋り声がした。普段ぼくらが用いている言語とそっくりな囁き。いつまで経っても拭えない甘美な残響。
 振り向いた視野の中央で、痩躯の人物が佇んでいる。
 少年だろうか、青年だろうか。はたまたとっくに成人しているのか。ひょっとすると少女かもしれない。凹凸の乏しい肉付きと、肩を越す繊細な毛髪が、ひどく目を引いた。長髪が銀、金、白、灰、様々な色合いへと、揺れている。薄い唇が動きを変え、なにかしらの言葉を奏でた。単語と発話は、鼓動の如く轟く波の音と重なり、散った。正確な意図など理解できないが、どうしてか心がひどくざわついた。色褪せた天穹と対をなすように、波濤は底知れぬ闇を抱えている。途方に暮れたように、その人物は波打ち際で裾を濡らしていた。
 変わった夢だ。現実の波打ち際にいるわけではないと分かった上でも、二つの感情を抱いた。場違いなほどの焦燥と、吐き出しそうなほどの安堵。ストーリーラインもへったくれもない夢なのに、どうして落ち着かないのか。うっすらとぼくは悟った。内側を見つめているからだ。これはすべて、ぼくらの心象風景だ。
 重々しく咆哮を上げる、黒い波のうねり。色彩を失い、荒涼とした天。一直線に水面を貫く、雲間からの光線。絹糸よりも神経質に、細かくたなびく前髪。深く影を落とした合間から、こちらをぼうっと見つめる双眸。その色は、時が止まった非現実のフレームの中で、唯一明瞭な意味を孕んでいた。人を惑わすエメラルド、奈落の大海、夜明けの果て。あらゆる秘め事を湛えた、深淵の虹彩。孤独に、しかし力強く己の存在を訴えている。
 ああ、この瞳には、見覚えがある。
 誰よりも知っていて、なによりも知りたくて、しかし永遠に届かぬしるべ。だからこそ、いつまでも追い続けてしまう、永く伸びた影。ぼくの最も内側で息づいていて、同時に最も離れた相手。
 そうだ、幼げを残した顔は、白凰のものだ。
 ぼくは、白凰の元へ一歩ずつにじり寄った。砂がざらついた音を上げる。浜へ刻んだ跡はすぐ、波に攫われてしまった。手を伸ばせば簡単に届きそうな距離まで近付いたが、足が竦んでしまう。白凰の眼差しが、ぼくを突き刺す。白凰は数回瞬きをすると、海へ向かって前進していった。足首、ふくらはぎ、太ももと白凰の身体が埋もれていく。ぼくは衝動のまま、訳の分からぬ言葉を口走って後を追った。水は冷たいどころか、ぬるくあたたかい。危ういほどに。
 白凰は、首をひねってぼくを振り返った。来るな。おいで。どちらのメッセージでもあるような、どちらでもないような。まるで今にも泣きそうな目つきだ。ぼくはありったけの力で走り、白凰を抱きしめた。決して離れぬよう、離さぬよう、考えつく限りの最も強い抱擁を与えた。意味なんてなかった。いらなかった。ただ、白凰を一人でこの海に還してはならないと感じたのだ。白凰の両手が、躊躇いがちにぼくの背中へ回される。恐る恐る指先が服を引っ張った。そして、ぼくの身体をさすった。労い、包みこむ手つき。視界が揺らぎ、ぼやける。頬を、唇を、顎先を熱い滴が通った。ぼくは、白凰の中で泣きじゃくっていた。
 あたたかい。さむいのに、あたたかいよ。ぼくたちは、ぼくたちだけの羊水に揺蕩っている。大いなる海に、二人で身を寄せ合っている。
 白凰の顔を見つめた。ぽろぽろと、とめどなく涙を零している。ぼくは指先でそれを拭ってやった。ああ、なんと変わった夢なのだろう。尾を引く形跡は、脳裏に焼き付いた二つの宝石だけ。何色とも表現のし難い、ただひたすらに美しい双眸の残像だった。

ホワイト、ホワイト、ホワイト。
 いつもの声がする。世界中のどんな声よりも、ぼくの心を搔き乱す響き。誰よりも近くで鼓膜を震わせ、神経を焼き切る囁き。

 起き上がると、そこはいつもの和室であった。いつもの、と思わず表現してしまったが、ここに訪れたのは昨夜が初めてである。しかし、やけに懐かしい雰囲気を醸し出しているので、一晩ですっかり馴染んでしまった。元々、ぼくは宿泊先で疲労が溜まらないタイプだ。寝る環境が変われども、それが劣悪でなければ問題ない。打って変わって白凰は、枕が違うだけでも大分気になるらしい。わざわざ家から常用しているものを持ち運ぶほどはないが、それなりに落ち着かないと語っていた。すぐに寝付いてしまうので自分も気にかけていないが、家に帰るとやはりホッとするとも。図太いくせに、こういった個所では無駄にナイーヴな一面を持つ男だ。
「朝だよ」
「ン……」
 呼びかけに応じなければと思いつつ、身体が重い。布団の中に頭まで入ると、白凰が間髪入れず注意を放った。
「誰が二度寝しろって言ったかな。もう日は昇ったよ、さあ起きた起きた!」
「ンン~~、あい、あい、わーったよ……」
 白凰はいいのだ、目覚めが辛くないから。ぼくにはてんで向いていない。努力だとか性格だとかの次元ではない。体質なのだ。脳の半分は、まだおねんねした状態である。まだまだ寝足りない。とっくに成長期は過ぎたが、睡眠はいつだって重要だ。ダメだ、布団があたたかすぎる。あまりに気持ち良くって抜け出せない。これは布団の側に責任があるだろう。うだうだと身を捩っていると、不意に夢の残滓が頭を掠めた。そういえば、昨晩は不思議な夢を見たような。白凰に尋ねようとして、すんでのところで止めた。例え明確に思い出せずとも構わないのだ。すべては心の中にあるから。
「おはようございます」
 またしても絶妙なタイミングで、老婆が姿を見せた。
「おう、おはよう……」
「敬語!」
「……ございます……」
 頭が回らないので、白凰の指示するままだ。早く動き出したいのは山々だが、どうにも身体が言うことを聞かないのだから、仕方があるまい。布団をぐるぐると巻き付け、足をばたつかせるぼくを見下ろし、老婆は挨拶を続けた。
「起きられましたら、廊下を右へお進みください。無地の襖を開けられますと、ご友人との集合場所になっております」
「んー、つまり、昨日の泉とは反対方向、ってことだな……」
「左様でございます」
 それにしても、広い平屋だ。ぼくたちが遠目に認識した際には、ごくごく小さな民家にしか思えなかった。空間が歪んでいるのかもしれない。割と真剣な想像だ。ご友人たち、か。ババアが誰に連絡したのかは分からないが、Dr.やナイト辺りは確実に来るだろう。ぼくもとうにこどもではないのに、奴らからすれば庇護の対象として扱われっぱなしである。熱血馬鹿の勝舞も、まず間違いなく同行してくる。アイツが大人しくホテルで待っていられるわけがない、というある種の信頼すら芽生えていた。ついでに黄昏ミミやジョージ、角古れく太なんかも着いてきて……ああ、結局のところ全員が迎えに来そうだ。一応、遭難して救助を呼んだ側なので文句は言えない。
「ちなみに、連中はいつ来るって?」
「そうですねえ、もうそろそろ到着される頃合いですかねえ」
「なるべく遅れたくはないね」
 大会の開催状況がどうなったのかも知りたいし、なにより日常に戻りたい。ぼくは四肢の筋肉を震わせ、自分自身に喝を入れた。
「よし、起きる、ぼくは起きるぞ」
 起きるったら起きるのだ。何度も言い聞かせると、ようやく布団をひっぺはがしても構わない気がしてきた。ここまで調子が上がってくれば、後は大丈夫だ。布団から脱出し、乱れた掛布団を元の位置へ直す。
「いつ見ても羨ましいくらいだね、その切り替え」
「てめーは起きた後が長いもんな」
 白凰が借りたハンガーから、コートを取り外す。ボタンを掛け合わせていくと、いよいよ新たな一日の始まりへ、集中が高まった。
「随分と世話になったな」
「わたくしも貴重な経験が出来ましたので、お互い様ですよ。それでは、これにて失礼いたしましょうかねえ」
 老婆は軽く頭を下げると、和室から退出しようとした。
「待て待て。流石にこのままってのも、筋が通らねえだろ。後で礼をさせてほしい。名前と住所、連絡先を控えさせてくれ」
「まあまあ、オホホ」
 話を聞いているのかいないのか。顔を綻ばせながらも、老婆は首を横に振った。
「お二人におもてなしができたこと。それだけで、十分でございますよ」
「そうもいかねえって」
「ほうら、皆様がお待ちですよ。お急ぎください」
 暫く老婆から視線を離さなかったが、相手も強情だった。微動だにせず、早く出発しろと無言の圧をかけてくる。ここで無益な我慢比べ大会を開催しても、どうしようもない。そうだ、老婆からの電話を受け取った者なら、最低限の情報は把握しているだろう。怪しさ無限大の老婆ではあるが、そうは言っても素性を名乗ってはいると思いたい。仮に老婆の正体が知れずとも、集合場所は指定してあるのだ。そして、この近辺に他の人間はまず住んでいない。このエリアに住居を構える老婆を探している、と調査を開始すれば、あっという間に突き止められるだろう。あくまで、受けた施しの対価を払いたいだけであるのに、どうして探偵まがいの行動が要せられているのか甚だ疑問ではあるが。
「色々ヘンテコな目には遭ったが、助かったぜ。じゃあな」
「ええ、どうか達者で」
 ぼくは老婆が見送るがまま、廊下を右に歩き、襖の向こう側へ飛び出た。昨夜と同様、靴が並べてある。太陽が顔を出して間もないのか、空から夜の残り香がした。
 集合場所、と老婆は語っていたが、人っ子一人いやしない。代わりに、誰かの除雪作業のお陰か、腰のあたりまで積もった雪原に一本のルートが生まれていた。両脇に重ねられた雪は塀のように高さを増し、聳え立っている。よくよく見ると、露出した地面は舗装されたコンクリートであった。ここを辿れば、大通りとまではいかずとも、それなりに開けた場所へ出られるだろう。
「ひゃー、朝はやっぱり寒いかも」
「覚醒できて、かえってイイんじゃねえの」
「一応言っておくけど、風邪だけは引かないようにしてくれ。きみだけの身体じゃないんだから」
「……」
 ここで噴き出さなかったぼくは、随分と辛抱強いと我ながら思う。
「黙っちゃってどうしたの」
「てめーって、本当に、マジで、超絶、天然だ」
「どういうことだい? 何故そういう話の流れになるのかな」
「分からんなら、そのままにしておこう」
「ちょっと、はぐらかさないでよ」
 すると、どこからか連続した低音が響いた。唸るようなスタッカートが、一定して鳴る。これはエンジン音だ。ぼくたちの前方から確かに聞こえる。視認はできないが、付近になにかしらの車両があるのは疑いようがない。音は過ぎ去ることなく、振動が木々の枝に伝わった。停車でもしているのだろうか。
「……い、は……―!」
 雪の合間から、人の大声が飛んできた。若い男、女、老人、こども、様々な周波数が二つの名を呼んでいる。
「白凰さまー!」
「ホワイトー、どこだー!」
 相変わらず、賑やかな連中だ。足を踏み出す度に、呼びかけとの距離が縮んでいく。朗らかな陽射しに、思わず顔を上げた時。行きに乗り込んだ普通自動車と、いつものシルエットがあった。こちらが発声するよりも先に、とんがり頭が駆け走ってくる。両肩を鷲掴まれ、前後に揺さぶられた。
「白凰! ホワイト! 大丈夫だったか!?」
「勝舞っ、落ち着け」
「オレたち、すっげー心配したんだぞ!」
 突っ走った勝舞に続き、他のメンバーもやって来た。口々に、安堵のため息を漏らしている。
「わあああ~~、良かった、良かった」
「ぼくたち、誘拐か失踪かって、大パニックだったんですよ」
「スタッフも総動員で、かなりの騒ぎだったんじゃ」
「いやあ、無事でなによりだぜい」
「……迷惑かけたな」
 ナイトが車両の雪を払いつつ、全員に乗車を促す。
「詳しい話は、車内でたっぷりしよう。それにしても、昨晩はどこで過ごしていたんだい」
「そうだな、あの家の」
 歩んできた方角を見返し、驚倒した。そこには、なにもなかったからだ。正確には、凍り付きそうな小川しかなかった。後はひたすら、地平線までのフィールドを雪原が満たしている。踏みしめてきたはずの道すらない。無論、今しがた後にしたばかりの民家も見当たらなかった。
「家? この農道ぐらいしか、辺りにはないはずだけれども」
「……いや、また追々、な……」
 ついに、次なる予想が的中した。起床してすぐに家屋が消滅しなかっただけ、喜ぶべきなのかもしれない。残された展開は、真正面からお仲間たちに事情を話して、ホワイトも冗談を言うようになったと揶揄われる、といったところか。曖昧に茶を濁しつつ、ぼくは後部座席の左ドアを開けた。

 車両はホテルへ進路を取り、順調に走り出した。狭い車内において、暖房はすぐに効力を発揮した。もはや汗ばむ勢いである。コートをシートの頭に引っ掛け、タートルネックの襟ぐりを緩めた。
「想定外の豪雪で、完全に交通機関がストップしてね。選手もスタッフも、結構な数が足止めを喰らってしまったんだ。だから、今朝の大会はひとまず延期。仮の予定だけれども、二週間後の日曜に持ち越しさ」
 ナイトからの説明を受け、ぼくは頭の中でスケジュール帳を描いた。確か、その日程なら丁度対応できる。ぼくにとっても白凰にとっても、このままでは不完全燃焼に終わるところだった。改めて対戦の場が設けられるのであれば、これ以上の要望はない。
「クッソ~、決闘したかったのに! この感情、どこにぶつければイイんだ!」
「勝ちゃん、中止じゃありませんから。もうちょっと経てば、試合できますよ」
「分かってるけどさあ、こう、昂ってきた気分がさあ」
 勝舞の意見も、よく分かる。会場で相手と対峙するその瞬間に、コンディションが最高となるよう過ごしているのが決闘者だ。発散するはずだったエネルギーは、相当の質量である。
「安心しろぉ、勝舞ゥ。帰ったら相手してやる、よ」
「サンキュー、ジョージ。こうなったらトコトン、だな」
 本日の大会がずれ込み、ぼくらの一日はガラ空きになった。ホテルに置いてきた荷物を各自が回収した後は、解散である。とはいっても、勝舞の家に全員で移動する手筈になっているが。言い出しっぺの誰かが、無邪気に計画した。折角だから身内大会を開こう、と。即座に提案は承認されたのだった。
「それにしても、こんな雪深い場所なら、いきなり降るかも、なんて事前に想定できそうじゃない。せめてもう少し別の地域で開催すれば、不安材料も減ると思うのよね」
「この時期には、普通こうも積もらないらしいですよ。地元の人もビックリしていました」
「自然現象ばかりは、予測しきれんからのう」
「ようし、今日は総当たり戦といこうぜ、いっぱい決闘したいからさ」
「まあ、そう焦らずとも俺達は逃げないぜ。参加者はどれぐらいになるんだァ?」
「今いる全員で七人、勝舞くんのお母さまを入れても八人ってところかしら」
「黒城とか、呼んだら来るかなあ」
「はは、彼、結構忙しいんじゃないかな」
「てか、アイツって普段なにしてるんだろう」
「公式大会にも、ほぼ顔を出さないようですしね」
「ねえねえ、お菓子食べない? グミとか、いっぱい持ってきたのよ」
「このチョコ美味いな~」
「もう食べてんのかよぉ、早すぎるぜ」
「というか、このレジ袋に入っているの、全部おやつなんですか?」
「決闘中って、頭をすっごく使うでしょ? 集中力が持続するように、糖分補給は必要不可欠なのよ!」
「分かるぞ、オレも試合終わりって腹減るなあ」
「あ、でも食べ過ぎてもボディに響いちゃうから、悩ましいところよね」
「決闘するだけじゃ痩せませんもんね」
「特にこのスイーツなんて、かーなーりーのハイカロリーだぜ」
「贅沢ですね~、チョコにクリーム、キャラメル、ああっ、物凄い~」
「なら、こういうのはどうかしら? 今日の大会で優勝した人には、このおやつ一式、まるまるプレゼント!」
「ほっほっほ。盛り上がってるのう」
「みんな、延期になって肩を落としているかと思いましたけど、元気そうで良かったですね」
「そうだナイトちゃん、ラジオ付けてもイイかのう」
「どうぞ。あ、この曲、前にシングル買ったなあ」
 ぼくは窓ガラスに頭を当て、瞼を下していた。行きの道中に聞いたような、漫談に近い会話がひっきりなしに繰り広げられている。カーブ時の重力に押されて、身体はどんどん窓側へと寄っていった。道路の状況に応じて車が僅かに跳ねると、ぼくの頭も揺さぶられる。どこか火照った額は、ひんやりとしたガラスによって鎮められた。ただでさえ活発な話し声に、カーラジオから流れるナンバーが拍車をかける。古い洋楽らしい。ジャズ、ボサノヴァ、ソウル、ラテン。音楽のジャンルなど詳しくはないが、運転手の陽気な語りが耳に入ってくる。いつものことではあるが、人はラヴソングを軽率に好みすぎだ。
 目を閉じたまま窓際に凭れかかったぼくを見て、誰も声をかけてはこない。入眠の妨げになると遠慮しているのだろう。眠気はとっくに失せていたが、ただ、なんとなく落ち着きたかった。意識の中で、白凰が身じろぐ気配はしない。安心して奥へ引っ込んだらしい。寝ているも同然だ。
「うおお~~っ、あそこにでっけえ雪だるまあった!」
「ええ、そんなわけないじゃない~」
「嘘じゃないって、ほら、ほら。ずうっと遠くに、ほら」
「ってオイオイ、ガチでデカいぜ、ありゃあ」
「全高十メートルはありそうですね」
 一段と騒々しさのレベルが増したので、片方の瞼だけ持ち上げる。勝舞が指をさす方向へ、舵をとるナイトとぼく以外の全員が頭を向けていた。ぼくの座る左側の席ではなく、右側の雪原で事件が発生したらしい。揃いも揃って窓にかぶりついて、見える見えない、見えた見えなかったと言い合っている。
 ぼくは喧騒の反対側へ目線をやった。よく磨かれたガラスに、ぼくがいる。
遭難、家、泉、夢。結局、すべての正体は有耶無耶なままだ。それでも差し支えないし、むしろ漠然とした状態で放っておくべきなのだろう。真か偽か。夢か現か。すっぱり線を引けるほど単純な出来事も、人も、いないのだ。
 本当の己。本当のぼく。本当の白凰。本当のぼくたち。
 自らに内包した迷宮で、彷徨っているような心地だ。鏡写しのぼくと、眼差しが交叉する。ぼくという存在を縁取り、輪郭を描く枠。ぼくを包み込む、環境という枠。良識という、この上なくくだらない枠。ぼくをぼくたらしめ、白凰を白凰たらしめる枠。車窓の枠が、多義に重なっていく。

 とっくにぼくは知っていた。ぼくが白凰と出かけ、夕食をとり、めちゃくちゃになって終わってしまった夜。他者にああまで憤激してしまった事由に、ぼくは気付いていた。だのに、知らないフリをして押し通した。我ながら稚拙な足掻きだ。白凰と間違われたこと、食事の時間に介入されたこと。確かにどれもこれも気に食わなかった。けれどもなによりぼくは、ぼくと白凰の間に、土足で踏み入られたのが許せなかったのだ。ぼくにとって、どれだけ白凰という存在が影響を有しているか、ろくに理解もできないくせに。白凰は禁忌であり、災厄であり、ぼくの一等柔らかな傷だ。腫れて、膿んで、滲んで。そして、これは白凰にとっても同様である。ぼくたちは互いに互いを規定せざるを得ない。壮大なる自己矛盾。なんと哀しき性か。ぼくと白凰は、共に生まれ、共に戦う運命なのだ。自覚し、受容するにはあまりに重い罪である。

 開いた口から、吐息が零れる。ほんの数刻だけガラスが白く曇り、晴れた。窓に映った顔は、熱に浮かされたように瞳を潤ませている。迎えのエンジン音が鳴り響いた時、ぼくは確かに、ほんの一瞬だけ感じてしまった。ああ、まだ二人でいたい、と。
 ぼくの片割れは、これまでもこれからも魘される。ぼくたちは、どうしようもない罪を抱えているのだと、譫言の如く繰り返す。
 白凰よ。永遠に終わらぬ贖罪の巡礼は、あまりに果てしない。願わくば、我らの旅路に二つのこころがあらんことを。ぼくは窓ガラスの半身と、密やかな口付けを交わした。


あとがき

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。

 元はといえば、デュエプレのWスキンを、たまたまネットの海で見かけたのがすべての始まりでした。中性的で、金・銀・白髪で、一人称がぼくで、天然が滲み出る真面目な子で、二重人格系のホビアニキャラが大好きなので、ハマらないわけがありませんでしたね。気が付いたら白凰とWの自己愛的な文章を必死になって書いていました。
いや……無理だよ〜〜〜〜〜好きになるに決まってんじゃんあ〜あ! ワハハ! (大の字) 

 さて、長い話となったこと、非常にリリカルな記述となり、ストーリーラインが分かりづらいものになったと感じましたので、軽く内容の整理をさせていただきます。
 上章を要約しますと、存外わるい一面のある白凰さまと、やっぱりわるい子なホワイトが、怠惰な一日を満喫する話です。
 白凰さまは光の申し子として、実に立派な精神の持ち主であることは疑いようがないのですが、彼も人間である以上、ある種の不道徳さや闇を抱えているとも考えています。記憶を奪われ幼児退行した際に、白凰さまはA(アッシュ)にはおせんべいを分け与えず、勝舞くんになら食べさせてあげたいと語りました。
 彼にもこうした、無垢で冷酷な幼稚性が眠っているのではないか。これまでの人生で培った鎧により、完璧な白凰を作り上げているだけで、その本質は、割かし混沌としているのでは……と思ったのが、こちらの話のきっかけです。
白凰さまがホワイトを見つめている内に、互いの境界線があやふやになり、溶け込んでいくようなイメージでした。

 下章は、うってかわってホワイト目線の話です。上章において白凰がホワイト側へ歩み寄ってしまったのであれば、下章ではホワイトが白凰へ寄り添ってしまいます。
 白凰と混同されることを何より嫌がる、独立した精神のホワイトではありますが、彼らの身体は一つ。故に、否が応でもホワイトは白凰を意識せねばならない。この葛藤と奮闘を踏まえて、ホワイトは白凰と共存していく運命を自覚し、受け入れる……という、完全に自分に優しい展開です。
 Wは、ジキルとハイドでいうとこのハイドのように、悪の体現者の如く作中では捉えられていますが……個人的解釈としては、白凰さまには元々、光と闇どちらも内在しているのでは、と感じています。
 白凰様が光でありたい、あらねばならないと強く意識していたために、表面には現れず、第三者からは確認しづらかったのでは。バランスとしては五十対五十なので、何か衝撃が加われば(母の死など)簡単に傾く。故に人格コロコロコミックと呼ばれるような(本人にとっては笑い事ではないが)豹変っぷりを呈してみせる。
 Wは外部からの洗脳・教育により、本質を剥き出しに成長させられたルートの白凰さまであるとも考えています。よって、闇が百、光の要素が零、といった極端な性質ではなく、白凰さま同様五十対五十かなと。だからこそ、差異はあれどあくまでデッキも光主体のまま。ただ本人に、光たれという自意識がないので、隠されていた闇の一面が露見し、冷酷に映る。

 ……何が言いたかったのかというと、白凰さまという、かねてより精神に二面性がありそうなキャラからWというもう一人のぶっ飛んだキャラが登場してきて、実に萌える! 二面性ありがとう! 二重人格(っぽいもの)ありがとう! という主張でした。
改めまして、迸るパトスのまま暴走気味に書いた小説を、お読みくださり本当にありがとうございます。これからも、この二人から目が離せません。