隠された部屋
(いないけど、いる)
白凰さまがグラビア雑誌を発見してWに怒る話。白凰さまってそういう下世話な話、苦手そうだし嫌いだし興味もなさそうなんで、かえって反応が気になるよね。この2人は鏡越しに会話ができるタイプです。
もっとコメディな話にしようと思ったのに、この2人を主題にすると、ついつい鬱々としてポエミーな展開になってしまうよ〜
ぼくはたまらなくなって、鏡を睨みつけた。思いっきり、出来る限りの軽蔑を込めて。鏡像の少年は、にたにたと意地の悪い笑みを湛えるばかりだ。
「説明してもらおうか。一から百まで、きっちり、ぼくが納得いくまで」
「別にぃ、言うほどのことじゃねえけどな」
「大問題なんだよ、これは!」
握りしめていた雑誌の表紙を、もう片方の手で弾く。安っぽく反射するA4コート紙の上で、二人の女性が肩を抱き合い、可憐な笑顔をカメラへ振りまいている。まあるく肉のついた肢体は、この上なく頼りない水着に包まれ、今にも溢れそうだ。胸と胸がぶつかり合って、互いに押し上げるものだから、お餅のように形が変わっている。要は、低俗なグラビア雑誌だった。責任も罪も、彼女たちには一切ない。だが見れば見るほどはらわたが煮えくり返ってきて、やっぱり我慢ならない。だって、神殿の自室を片付けていた時にふと、最近ベッド下の掃除を怠っていたことに気付いて、掃除機をかけてみたらこの冊子を吸い込みかけた瞬間の、失望感といったら。もちろん、ぼくはこの本を買った覚えもないし、これからも買わない。この部屋に立ち入るの者はぼく以外に存在しない。ただ一人、入室を禁じることのできない少年を除いて。
「W……きみだよね、持ち込んだのは」
尋ねられた鏡像は、さも面倒くさそうに答えた。
「ああ、物理的に運んだのはオレだな、確かに。でもな、色々訳があるんだよ」
「訳? どうせロクでもない話だろ。大体、きみの性癖なんて知ったことではないけどね、下世話な本をどうしても読みたいというなら、絶対に誰にも知られないところで楽しんでくれ」
「おい、待て、誤解のないように伝えとくが、オレの趣味じゃねえよ! てか話聞けっての!」
Wが鏡の中で吼えている。
「はいはい、それじゃあ弁解でもなんでも、どうぞ」
「態度悪いよなあ、お前ってマジで。他の取り巻きの奴らとか、お友達の切札勝舞への対応と、オレへの対応、違いすぎるだろ」
それはね、W。白い騎士団のみんなはぼくの部屋へ猥褻物を放り込んだりしないし、勝舞くんはきみと違って、他者を一番に考えられる人間だからだよ。
「へーへー。じゃあ話すけどよ、聞いてからああだこうだ言うなよ」
「それは内容次第だ」
Wは文句ありげにぼくを見つめたあと、後頭部を乱雑に掻いた。鏡とは、ガラスの裏側にコーティングされた金属で光を反射して、像を結ぶ物だ。だから現実に「ない」ものは映らない。遠く離れた友人も、胃袋の中の昼食も、棚の中に仕舞われたデッキも、鏡の前へ翳せないのならば、映らない。隠されたものは、いないものと同義だ。たとえ頭の中でどれだけ鮮明に思い浮かべることができたとしても、どこにもいない──通常であれば。Wは本来「ない」側へ分類される存在のはずだ。だのに、ちょうど一人分を縁取れるぐらいの、長細い姿見の中では、確かにWが息づいている。あくびをしたり、眉毛を吊り上げたり、なんら普通の人間と変わりない。ぼくはこの珍妙な現象を、誰に相談することもなく、ただ受け止めていた。だって、こんなことをどうやって打ち明ければ良い? 人に吐き出して楽になるより、ぼくは自分の内に留める方を選択した。
決心がついたようで、Wの説明が始まる。
「一週間ぐらい前か……涼しい夜だったから、なんとなく庭に出たんだよ。建物の壁にもたれて、ボーッと。たまには必要だろ、こういう時間ってのが。で、オレはちょうど角のあたりで突っ立ってて、同じく反対側の角から、急に声をかけられた。位置関係、分かるか?」
「なんとなく。こう、直角部分にいたわけだね」
「そ」
思い返してみれば、先週は夕方以降の記憶がほとんどない日があった。その際の出来事だろう。ぼくとして動く日も、Wとして過ごす日も、わざわざぼくたちは詳細を共有しない。なにを食べただの、誰と会っただの、記憶を分かち合うことは、ほとんどない。互いに知らなければ不都合な情報だけは、事務的に伝える。わざわざ二人で話し合って決めた規則ではないが、いつしか確立していたルールだ。ほんの少しの隠しごと。語られないものは、ないと同じ。ぼくはWがあえて話す以外の日常を知らないし、Wもぼくを知らない。知らなければ、いない。気にする必要もない。
「で、オレとそいつは互いに見えなかったわけだが、そいつの声に聞き覚えがあったんだ。よくお前の試合のとき、最前列で旗振ってる野郎だよ」
ぼくはアリーナに立つ自分を想像した。いつもの応援席。シミ一つない真白の制服が、ずらりと並んでぼくを見下ろしている。それは個の集まりというよりも一つの大きな集団だ。
「クク、旗振り野郎なんていくらでもいるからな。一人一人、覚えちゃいねーってか」
「ちょっと、本題からズレてる」
言い返してみて、ぼくは思わず舌打ちした。顔を歪めて笑うWのペースに、危うく乗せられそうになっている。今は、ぼくがWを問い詰めているのだ。
「おっと、失礼失礼。で、相手はオレのことをどうも勘違いしてるらしくてな……別の奴の名前を呼びながら、いつものやつだ、って言って、茶封筒を渡してきたんだ。手だけヌッと伸びてきてよお。人違いだって言おうと思いつつ、目の前に差し出されたもんだから、つい受け取っちまったんだ。そしたらもう、嘘みたいな速さで帰りやがって、そいつ。気が付いたら姿がなかった。もう一回探し出して返すのも面倒くせえから、一旦部屋に戻って中身を確認したんだ。それで中に入ってたのが、お前がずーっと握ってる雑誌な」
ハッとして自分の手元へ視線を落とす。Wへの尋問に必死で、すっかり意識の外側へこぼれ落ちていた。はたき落とそうかと思ったが、今のWの説明を踏まえれば、これは他の誰かの所持品である。逡巡して、ぼくは本を卓上に伏せた。
「くだんねーって拍子抜けして、もう夜も遅かったから、ひとまずベットの下に置いといたってわけ」
「要約すると、きみは白い騎士団のメンバー同士の回覧物を偶然にも受け取ってしまい、対応に困って部屋に持ち帰り、適当にベッドの下へ放り込んだまま、忘れていたわけだ」
「国語のテストだったら、間違いなく点数のもらえる回答だな」
まるで自分の仕事は終わったとでも言わんばかりにWが寛ぎ始めたので、ぼくは鋭く行動を制止した。
「ちょっと。むしろこれからだからね、本題は。きみが個人の趣味で購入したならまだしも、みんながその……回し読みしていたものなら、次の順番があるはずだ。このまま放っておいたら、あの本はどこへいったって、余計な騒ぎになるよ。迷惑をかける前に、誰かに渡したほうがいい。今ぼくに話したような経緯を、細かくしっかり伝えて、ね」
鏡の世界で足を組んでいたWが、慌ただしく姿勢を直す。というよりかは、ぼくの方へ襲い掛かるように駆け寄ってきた。無論、薄い薄い一枚の板がぼくたちを隔てているので、首根っこを掴まれることも、両手を握られることもない。
「おい、ふざけんな。そんな面倒くせーことできるか」
「ぼくはいたって真剣だ。対処法を述べたまでだ」
「ああっもう、絶対こうやって面倒くせー流れになるから、黙ってたんだよ」
「面倒くさい、面倒くさいって、あのねえ。そもそも初めから、不要なプライドなんて捨てて素直に申し出れば良かったんだよ。間違えて受け取ってしまったんだけれども、って。あの時面倒くさがったせいで、今こうして、さらに面倒くさいじゃないか」
Wの顔が、鏡いっぱいに映る。金属の膜へ、今にもヒビが入りそうなほどの迫力だ。檻に捉えられた猛獣を眺める、観客人の気分がした。キャンキャンと吠える様相は、どちらかというと小型犬のそれに近しいけれども。
「長い! くどい! うるせえ!」
Wは身を翻すと、一人用のカウチに飛び込んだ。鏡像の、カウチだけれども。うつ伏せのまま、ぴくりとも動かない。どうやら「拗ね」と「逃げ」のモードに突入したらしい。都合の良い男だ。暫くあれやこれやと話しかけたが、時たまひらひらと手を振られるだけで、まともなリアクションは一つも返ってこない。ぼくもこの案件へまともに向かい合うのが、ほんのちょっぴり嫌になってきた。なんだってWの尻拭いをしなければならないのだろう。しかし、ぼく以外の誰が、最後まで責任を負える? 徐にWが独りごちた。
「この部屋は平穏から程遠い場所だ」
「誰が遠ざけてるんだろうね」
「オレって言いたいのかよ」
「理解が早くて助かるよ、流石だ」
ありったけの皮肉を込めて言葉を贈ると、弾かれたようにWが起き上がる。
「大体よお、自分の部屋ってのは、他人に見られたくないものの一つや二つ、あるもんだろ。たかが一冊、雑誌じゃねえか。そうカッカすんなよ。お前が今、ビリビリに破いてゴミに捨ててくれりゃあ、全部解決するんだし」
細々とした下準備よりも、直接的な行動。Wらしい解決策ではあるが、妙案だと頷くには、粗暴すぎる。
「仮にも誰かの所有物を傷付けるのは、許容できないね」
「じゃあなんだ、クソ真面目に名乗りをあげろってか? オレは嫌だぜ、それ持ってくの!」
「わざわざ言うまでもないけど、ぼくだって嫌だよ!」
表紙を机に押し付けられて、窒息しそうな雑誌が、ぼくらを無言で詰る。表側よりかはいくらかマシだが、裏表紙にも俗っぽい広告がベタベタと貼り付いているので、どうにも落ち着かない。
「ハア、そもそもこの部屋に持って帰っちまったのが失敗だったな。適当にあそこに置いてくりゃあ良かった」
「あそこって、どこ?」
「どこって、ほら、あの隠し部屋」
あの隠し部屋。脳内で検索をかけてみたが、一件もヒットしない。
「お前に言ってなかったか? 神殿の隅っこに、誰も知らねー部屋、見つけんだよ。オレの基地として改造中の」
Wはなんて事のない風に話したが、これはかなり衝撃的な発見である。神殿にはもう長いこと通い続けているし、ある種自分の家のような場所だ。無論内部の設計だって、図面をわざわざ確認したわけではないが、全て理解しているつもりだ。用途の分からない部屋はないし、どこに繋がっているか不明な通路などなかったように思われる。嘘か真か判然としないが、彼は益のない出まかせを良しとする質ではない。むしろ剥き出しに意見や感情を曝け出す性格だ。見つけたと語るなら、実際にその通りなのだろう。
半信半疑であったが、ぼくはWの提案に乗った。つまり、Wが見つけたという隠し部屋へ向かうことにしたのだ。この部屋で雑誌を抱えたまま、いつまでも話し合うわけにはいかない。ぎらぎらと煩い雑誌を、一回り大きな紙袋に仕舞い込んでぼくたちは出発した。
足元、壁、天井をぐるりと見回す。ハア、と間の抜けた声が思わず出た。確かにWの供述通り、そこには部屋があった。辿ってきた順路を再生してみて、ますます不可解さが増す。無数に張り巡らされた廊下の、とあるポイントで床を強く押し込む。すると表面のフローリングが変形して外れ、地下への階段が出現する。感触だけを頼りに暗い道を降りていくと、この部屋に到着する。W曰く、不用品を詰め込んだ段ボールを運んでいた時、手を滑らせ、たまたま特定のポイントへ落としたらしい。
滑らかな灰色の石が、大小様々に重なり、部屋を構築している。さて、ここは設計時のミスによる産物だろうか。はたまた、意図的な空間なのか。当初抱えていた、なにかしらの目的が時間と共に薄れ、部屋だけが残ったのだろうか。それに、この部屋へ辿り着くギミックが、些か単純すぎるようにも感じる。それこそ、この神殿では日々数多の人々があちらこちらへ行き交う。長い年月の中で、先ほどのポイントに初めて強い圧を加えたのが、Wなんてこと、あり得るのだろうか。絶対、それよりも以前にこの隠し部屋を知っていた人間がいるのではないだろうか。だが、ぼくもWも、答えを持ち合わせていない。
Wが改造中だと話した通り、無骨でどこか陰気な地下室は、絶賛イメージチェンジの最中だった。Wによって持ち込まれたライトと液晶モニターのおかげで、光量は十分である。ブランケットに、小さなスピーカーに、どこかで貰ったチラシ。小ぶりなデスクの上にはペットボトルの容器が二本。どちらも空っぽ。随分と生活感の溢れる小物たちだ。
ふと、真っ白な布が目に留まった。積み上げられた荷物を覆い隠しているのか、不規則な陰翳を湛えている。布を捲り上げてみれば、現れたのはなんの変哲もない、ただの姿見であった。ちょうどそう、ぼくの部屋に置いてあるものとよく似た、平凡な鏡。怪訝そうな顔でこちらを覗き込むぼくのシルエットが、輪郭が、徐々に歪んでいく。腰に両手を当てて、さも偉そうな振る舞いのWが、ぼくへ語りかけてくる。
「埃被んねーように、のっけてたんだよ」
「ああ、なるほどね」
ぼくは布を、元の形状へそっと戻した。もう、誰も映らない。
見えない部屋。忘れられた部屋。隠された部屋。それは、いないことと同じで。でも、確かにずっと部屋は存在し続けていて、こうしてWに、そしてぼくに気付かれるのを待っていた。いないけれども、いる。石造りの壁が、冷たい息を吐く。
「なんか、バカバカしくなってきたな」
「そうだね」
「三国にでも渡せば、適当に取り次いでくれんだろ」
ぼくはあえて返事をしなかった。行動の主体はWだと、無言のうちに訴えたのだ。
「チッ、分かってるって。あとでオレが行くよ、行けばいーんだろ」
苛立たしげではあるが、しっかりとした回答だ。
「ちゃんと、最後まで頼むよ」
ああ、ようやく望みの言葉を引き出せた。ぼくは胸を撫で下ろして、大きく息を吸った。隠匿された静謐な基地は、誰にも知られていない。人々にとって、この部屋は存在しない。いない。どこにもいない。
でも、いる。
(遠く離れた友人も、胃袋の中の昼食も、棚の中に仕舞われたデッキも、忘れられたグラビア雑誌も、覆われた鏡像の分身も)