紙で指を切る話
生きてる実感の薄い無頓着な獏良、死と生を渇望している強欲なバクラ。
正反対のように見えて、案外似たもの同士なのかもしれない……ってのを表現したかったが、ただペチャクチャ2人が喋ってるだけじゃん!!!
「あれっ」
机上に散乱した、A4用紙の滑らかな表面。黒鉛の粒子が文字を綴る、その真っ白な肌に、妙な痕を見つけた。水滴が弾けたような、歪な形状の滲みだ。
何かインクでも溢したのだろうか。いやしかし、ボクはただいつもの如く、TRPGのシナリオ案をシャーペンで書き殴っていただけで、他の筆記用具や画材は使用していない。
突如現れた、正体不明な赤褐色の汚れ。とりあえず紙を持ち上げて、ひっくり返してみた。裏側にも錆びた色素が通過して、繊維を侵食している。いよいよ首を傾げた時、ぽたっとヘンテコな音がした。ちょうどボクの真下、デスクの上で。眼球の運動だけで状況を確認してみると、先ほどまでは何もなかったはずの箇所に、新たな滲みが生じていた。今度は鮮烈な赤色だ。
思わず手を伸ばし、まだ乾いていない液体を指で突っつこうとした時、ボクははたと気付いた。自身の人差し指の先端、柔らかな皮膚が、華奢な一筋の切れ目に、喰われていることを。
ぽた、と、またふざけた効果音がする。目を凝らさないと視認できないぐらい、薄い一本の線。そこから真っ赤な、まあるい雫が顔を覗かせ、みるみる膨らむ。やがて自重に耐えかねて空中へ舞い、紙面へ吸い込まれていった。
小さな小さな切り傷なのに、液体の真珠は次から次へと止めど無く溢れた。我先に、ボクの未完成なプロットの上へ身投げする。
このまま眺めていたら、生温い体液はいつまで流出するのだろう。ずっと、なんてことはきっとありえない。ありえたら、それこそボクはどこぞの古代文明が恭しく作成したミイラみたいになってしまう。一滴の量は非常に少ないから、例え百回紙に落っこちても、大したことはないだろう。でも、買い足したばかりのルーズリーフは、悲惨な目に遭うに違いない。
「宿主!」
途端、ボクの脳みそが激しく揺さぶられた。あまりに鋭い、一閃の目覚め。指先にフォーカスして、極限まで絞られていた視野がひらける。
「ボサっとしてんじゃねえ、とっとと止血しやがれ」
またしても、形のない声が聞こえる。どこからともなく、ボクへ命令してくる。
「オイ、聞いてんのか?」
威圧、嘲弄、警戒、不信。様々な音色が混ざった、不思議な味わいの声だ。ボクと同じ身体から発声しているとは到底信じられない、と遊戯くんが以前話していた。ボクには、彼が表へ出て楽しんでいる間の記憶がない。だから、遊戯くんの語る差異というものが、イマイチしっくりこない。
どうしてビックリするの、どの辺りが信じられないの? 第一、アイツってどういう風にみんなの前で喋るの? ボクとはどう違うの?
なんて、疑問詞を覚えたばかりの言語学習者みたいに、思わず質問してしまったっけ。あの時は確か、隣にいた城之内くんが、待っていましたとばかりに熱弁を振るっていたような。
「まーたヘンな方向へトリップしてるみてぇだな……」
彼──バクラの嘆きは、確かにボクの耳へ届いていた。
「分かってるよ、血でしょ? 紙で切ったのかな」
「御名答〜。それじゃ早く、そこら辺のティッシュなり紐なりで、止めな」
「うん……」
手を目前へ翳す。手首に集約した青紫の血管が、そのまま5本の指へと拡散していく。流れるがままに任せていた指の先端は、若干感覚を失っていた。軽微な痺れが、手元を包んでいる。
「やっぱり、不思議だな〜……」
盛大なため息が溢れた。
「話聞いてたか?」
「もちろん! あとでちゃんと処置するから……ね、不思議だよね?」
「主語がなきゃ、分かんねぇだろうが」
手持ち無沙汰だった、利き腕ではない方の指で、朱を吐き出す口を拭ってみた。残像のように、掠れた血液が広がる。その調子で、左手の指の腹に、全て擦り付けてみた。塗料とは異なる、有機的で禍々しい風合いだ。
「ボクの身体も、赤い血がぐるぐる巡ってるんだなあってのが、妙なカンジ」
「ハ! 宿主様なら、確かにとんでもねぇ色してそうだぜ」
「えー、例えばー?」
「虹色だとかよォ」
「ちょっと、もっとフツーな色あるでしょ!」
散々な言われようである。周囲の友人からも、一層レイヤーがズレているだとか、思考が彼方へ飛び立っているだとか揶揄われやすいが、よりによって邪悪な隣人にまで舐められてしまった。虹って、自然現象として空に浮かぶメルヘンな縞模様だろう。人体に対して使用する形容詞としては、相応しくない。ケタケタと、お伽話に出てくる黒幕のように影が歓喜する。
「フツーだなんて、俺たちに似合うかあ?」
厭な余韻をたっぷりと含めた、甘い囁き。ボクは至ってフツーで、真っ当だよ。ただ、お前みたいな得体の知れない存在も合わせて評価されるから、高確率で異常の方に分類されるだけ。そう淡々と言い返してやろうと思ったが、尚も止まらない血潮の煌めきに、やる気を削がれた。
「ボクの血が赤いってことは」
「ああ?」
「お前の血も同じ色ってことだよね」
バクラが、呆れの感情を隠しもせずに言い放つ。
「そりゃあ、同じ肉体を共有しているわけだ、当然だろうよ」
改めて文章にされると、妙な感覚だ。人間ってのは、フツー、一つの心しかないのに。儚い肉体の牢獄に、二つの精神が棲みついて、自由を求め暴れ出している。この状況を同じ立場から理解できるのは、遊戯くんぐらいだろうか。遊戯くんもボクと一緒の、二人ぼっち。でも、真の意味ではお互いに分かり合えない。遊戯くんの側にいるのは、誰に対しても真摯で頼もしい人格であって、ボクの裏側でせせら笑う人物とは、全くもって違うから。いや、そもそもコイツのことを人物、だなんて凡庸な括りに収めて良いのだろうか。もっとずっと、悍ましくて悲しい化け物に近しい。直視してはならない深淵なのだ。まかり間違って奥の方を見つめてしまったら、いつかの哲学者みたいに、こちらが呑み込まれて狂ってしまう。
だのに、目を凝らすと、暗がりの中から音もなく、何かが漏れ出している。涙よりも密やかに、ひっそりと液体が揺らぐ。全てを塗りつぶすその赤色の正体が、ボクの指から滴り落ちる血と同一であると、ふと気付いてしまう。今、まさにそんな心地だ。
「……ヘンなの!」
「ハア?」
「お前こそ、すっごい色してそうだよ。緑とか、青とか、それこそ七色だとかさ!」
「あんだとォ!?」
意識の裏側で、暴言が飛び交う。バクラは標準で言葉遣いが粗暴だから、カッとなると尚更酷い。でも、初めに言い出したのはそちら側なのだから、とやかく言われる筋合いなどない。主観を述べたまでだ。
一心不乱に、暫く両手を弄っていた。クレヨンに夢中になる幼児よりも、拙く。やがて出血の勢いは減衰し、妖しい血液の光沢も失われ、乾いた鉄の臭いが漂った。血漿、赤血球、白血球、血小板。色んな成分が溢れ出して、弾け飛ぶ。全てに現実感がなかった。
「ボクもお前も、フツーじゃないのかなあ」
「今更だろーが」
「それってなんだか、安心するような、寂しいようなカンジだね」
くつくつと、声帯が鳴る。高笑いしたり、押し殺すように嘲笑したり、実に忙しない。
「流石宿主様だぜ。思考が全く読めねぇ」
「それって褒めてる? 貶してる?」
「最高に素敵って意味さ」
すっかり様変わりしてしまった用紙を、何となく集めて一つの束に整える。所々赤黒い点が飛び散るノートの雰囲気は、若干チープではあるが、ポップにグロテスクで、悪くない。次のTRPGは、いっそサスペンス系の展開にしてみようか。いつもは手癖でファンタジーな内容が多いが、たまには挑戦も必要だろう。物語のキーアイテムは、事件現場に残されたノートの切れ端。罫線に沿って綴られた、意味深な文章。ダイイングメッセージなのか、紙には血飛沫が付着している。書き手の血液なのか、はたまた……。
うん、謎が謎を呼ぶといった具合で、面白くなりそうだ。トリックを考えるのに、少々骨が折れそうだが、こういったハードルを乗り越えなければ、納得できる作品は生まれない。ああ、新しいアイデアが全身の表層を迸る。今夜はまだまだ寝られそうにない。