花を捨てる話
ばくばく、室内でお花を飾っても絶対枯らしそうという偏見から生じた話
でも東映版だと観葉植物とか置いてあったから、案外お世話できるのかもしれない
いやどうだ?平気で自分の食事も抜きそうな人間が、何も訴えない植物の面倒を見られるだろうか、いや見られない(反語)
いつもの行く道、帰る道。学生にとってルーティンと化した往復路は、予定調和に満たされている。2つ目の横断歩道に掲げられた信号機は、大体赤信号だから足止めされる。すれ違うサラリーマンの顔は、会話を交わしたわけではないが見覚えのあるものばかりだ。たまに水道管の工事が行われていたり、散歩に連れ出された犬がぐずっていたり。変化があったとしてもその程度のもので、実に平穏である。裏を返せば、刺激に乏しい瞬間だ。だが、学校生活に趣味の創作活動にと、案外ボクの頭は回りっぱなしだから、かえってこのなだらかな流れがちょうど良かった。足が決まった道を覚えているから、ぼうっと歩いているだけで、学校か家へ辿り着く。そのプログラムされた時間なら、ざわつく心の中身を整理できた。家のこと、学校のこと、人間関係、将来、ボクの背後に立つもう一人。悩ましいことは無数にある。
その日の帰り道も、平常通りだった。変わり映えのしない、いつもの曲がり角。だが、普段はシャッターが降りたままのそこに、見慣れない店舗があった。特に看板は掲げられておらず、店名すら分からない。素朴なマホガニーの扉は開け放たれ、店内から僅かに笑い声が漏れ聞こえる。 「New Open」と癖の強い筆跡で綴られた案内札が吊り下げられているのを見るに、新しく開店したばかりらしい。洒脱な雰囲気からして、カフェか美容院といったところだろうか。通りすがるついでに、ちらりと覗いてみる。薄暗い室内にて、数人の若い女性が思い思いに会話を交わしている。だがそれよりもボクの目に真っ先に飛び込んできたのは、狭い空間を満たす、色とりどりの花々──。
「で、これを買ってきたってワケか?」
「うんっ」
目線の先に鎮座しているのは、水をたっぷりと湛えた透明なグラスだ。二本の花が、心細げに生けられている。
「お花屋さんって、そういえば寄ったことないなあって。ちょっと見てみてるだけのつもりだったんだけど、今なら一本オマケしますよって言われ、ついつい、ね」
「案外ちゃっかりしてるよなァ、宿主サマは」
空調の微かな風に、小ぶりな花びらが震えている。指で軽く撫でてみると、慌てたように淡い雪色の飾りが跳ね返った。
「お花なんて買ったの初めてだけど、ケッコー可愛いねえ」
お好きなのをどうぞ、だなんて店員さんに声をかけられてしまったものの、どれを家に迎えようか、決め手に欠けて右往左往してしまった。選びかねて、いよいよ面倒臭いなあなんて思った矢先、この花を発見したのだ。人間から隠れるように、出入り口から一番遠く、奥まった隅で売られていた。曇った冬の空のような、霞んでいるのに透き通った色合いの花がひどく可憐に映って、気に入ったのだ。
「これで合ってるのかよく分からないけど……」
花瓶なんて丁度いいモノは勿論持ち合わせておらず、使っていないプラスチックの器で代用してみた。花と一緒に受け取った栄養剤を水に溶かして、瓶に注いであるが、色が変化したり匂いが付いたりするわけでもない。店員のお姉さんが熱弁していた程に効き目があるのか、甚だ怪しい。早速不安でいっぱいいっぱいだが、か弱い花を眺めてみると、どこか心安らぐ感覚がする。
「クク、枯らさずにいられるか見ものだぜ」
「意地悪なこと言わないでよね」
その日は何かにつけて、デスクの上の花を確認してしまった。書籍やフィギュア、画材やあれやこれやに囲まれた、可愛らしい新人。自分がこの手で買った代物なのに、現実感がない。この花だけ、二次元の階層に属しているみたいだった。薄くて、軽くて、瞬きをしたら消えてしまいそうだ。
ベッドに潜り込んでも、暫く興奮が冷めやらなかった。消灯した部屋を見回したところで、花の様子など伺えなかったが、それがかえって心を騒つかせた。実在の厚みが、足りない。
次の日は、土曜日なのも相まって、昼過ぎに目が覚めた。全く中途覚醒がなかったのを鑑みるに、平素から睡眠不足のきらいがあるのかもしれない。もう少し夜更かしの頻度を抑えなければ。でも、シナリオのアイデアが唐突に浮かぶのって、どうしてだか深夜だったりするのだ。頭から不定形の発想が零れ落ちる前に、必死になって書き留めていると、あっという間に時間が経ってしまう。こればっかりは自分でコントロールできる管轄から外れているので、仕方がなかろう。つらつらと、とりとめもないことを考えながらリビングへ向かう。当然と言えば当然なのだが、昨日我が家へやって来たばかりの花は、全く同じ位置、同じ傾きで佇んでいた。時が止まったような風景だ。マンションの六階は地上からも遠く、外界の音も朧げになる。あくびを噛み殺しつつ近付いてみて、思わず一歩後ずさった
。
溢れるギリギリまで入っていた水の線が、グラスの半分ほどにまで降下している。蒸発では説明がつかないぐらい、量が少ない。もしや、一晩でこれだけ水を吸い上げたのだろうか。夏休みの宿題として小学生の時に押し付けられた朝顔も、二日目に鉢植えごと倒したか何かで、結局どう始末したか覚えていない。それぐらい馴染みのない相手だから、植物の勝手がまるで分からない。この小さな図体のどこに、たっぷりと水分を貪る胃袋が収まっているのだろうか。恐る恐る硬く尖った茎を持ち上げてみる。心なしか表面の艶が増しているように見えた。ぼんやりと全体像を踏まえてみると、花より下、茎のあたりがどうにも容器に対して長すぎるかもしれない。湿った花を掴み、キッチンへ運ぶ。本来であれば植物の選定用のハサミがあって、それを用いるべきなのだろうが、あいにく気の利いた道具などない。棚の奥から引っ張り出したキッチンバサミを、強く握りしめた。とりあえず必要かと思って購入して以来、一度も日の目を浴びなかったツールだ。いっそ思い切り短くしても構わないだろうと、大雑把に見当をつける。瑞々しい緑の節に、刃がゆっくりと食い込んでいく。思い切りグリップ部分に力を込めれば、間髪おかずに断末魔が上がった。生命が途絶える音だ。先端を失った断面からは緑の汁が、一滴ずつ垂れてきた。嫌にグロテスクなシーンだ。怪人の血みたいで興味深くはあるが、澄んだ花びらの様相とはちぐはぐで、違和感がある。途端に、手元に抱えた花が気色悪い物体へと豹変した。就寝する直前まで、淑やかに咲いていたあの花は、もうどこにもいない。手の中でぐったりとしているのは、恐ろしいほど生命力に満ちた、未知の生き物だ。体を無数に裁断されても、本来の根を奪われても、人の望む形状に押し込められっても、尚、生きようともがいている。
「あーあ、惨いモンだなァ」
愉悦が滲む、聞きなれた声。ハッとして意識を戻すと、いつの間にかゴミ箱の前にボクは移動していた。空っぽなはずの箱の中に、何かが放り込まれている。初雪より純粋な、白い羽根。水滴がまだ貼りついている、優美に伸びた胴体。さっきまで、花だったもの。
「まさか捨てちまうなんてなァ! 枯らすより残酷だぜ、ヒャハハハ!」
情報が溢れすぎて、かえってすっからかんになった脳を、皮肉交じりの高笑いが駆け巡る。うるさい、うるさい、うるさいってば! その場に倒れ込んで、重たい頭を抱え込んだが、事態は好転しない。
「オレ様の言った通りだろ?」
「なにが……」
「宿主サマに、文句も言わねえ花の世話なんざ無理なこった」
どうだろうね。お前に何が分かるっていうの? 知ったような口を利かないでよ、たまたま手が滑っただけかもしれないだろ。次から次からへ反論がよぎる。しかし、どれも苦しい言い訳に過ぎないと、何より自分が認識していた。
ああそうだ、ほんの少し胸を高鳴らせて持って帰ったあの日も、普段、自分以外に生き物のいない部屋だから、妙に居心地が悪かった。コントロールできない生命が佇んでいるのが、落ち着かなかったんだ。やめてよ、わざわざボクの心をひっくり返して、曝け出さなくたっていいじゃないか。
冷たいフローリングで悶え、身を捩り、転げまわる。体が軋んで、鈍い痛みが背中を突き刺す。そこでようやく、ボクは悟った。到底認められないし、認めたくもない事実を。
バクラが評するように、ボクには花の面倒など見られないこと。花に限らず、自分以外の、息づくものすべてが恐ろしいこと。支配できない他者の鼓動が、怖いこと。鮮明すぎる生より、柔和な死を望んでいること。
そして、闇の合間でほくそ笑むもう一人も、同様であること。ボクと奴だけが、忌まわしき文脈において主語になれること。なってしまうこと。これは、きっと唯一の救いだ。