表にちょっかいだしたモブが闇に抹殺される話
R18・出血表現アリ注意
俺はどこまでも抑圧された男だった。
母には見放され、父には見下され、寄り添う友などいなかった。自分の意見も言えぬままに生きていたら、いつの間にか言いたかった「自分の意見」そのものを見失った。そもそも論として初めから、俺にとってどこまでも俺らしいもの、つまり俺の芯など存在しなかったように。俺はそよ風に千切れる雲よりも曖昧で脆弱な男だった。そんな俺でも、そんなどうしようもなく存在の軽い俺でも、唯一抑圧から解放される瞬間があった。
ファタリ社から発売されたアーケード型ゲーム機・ハイパーシューティング。このゲームに、紙幣を崩して生んだ大量のコインを、それこそ沼へと放り込むように飲み込ませる時。俺はようやく、俺となる準備が出来る。
このハイパーシューティングは、そのネーミングのひねりのなさから分かる通り、内容は至極単純だ。プレイヤーが選べる操作キャラクターは、冴えない風貌のスーツの男一体しかいない。プレイヤーに与えられた弾数は無限大。そして横スクロールの窮屈な世界の中で、次々に現れる一般市民やギャングたちを撃ち殺す。許された100秒の中で、どれだけ葬れるか。ただそれだけだ。一応ランキング制度もあるが、俺以外のプレイヤーの名前など見ない。誰もプレイしていないのだ。
そもそも開発元がファタリ社という点が大きい。このゲーム会社は過去に一発でも、話題作とかヒット作とか、もしくは知る人ぞ知る名作のようなIPを発売した実績がない。簡単にまとめてしまえば、実力のない無名の会社だ。余程つまらなくて淘汰されたのか、ファタリ社のゲームなんて、このハイパーシューティング以外に見たことがない。
ではこのハイパーシューティングは、生き残ったからにはそれ相応に面白いのかと問われれば、俺は全力で否定する。このゲームも大概にクソだ。キャラクターが選べない分、性能の変わらないキャラを永遠と使わなければならない時点でテンションが下がる。弾も、パワー特化とか速度が桁違いとか、1発が5発に分身するとか、そういったアクセントの要素すらない。ただの弾。ただ一人殺すだけの弾。背景の町並みはいつも夕焼けのまま、時が止まっている。真っ赤な太陽と紫の夜が混じった空が、どこまでも続く。画面の右側からうじゃうじゃと歩いてくる人間たちも、グラフィックのバリエーションが4種類くらいしかない。一般市民の男女と、チンピラの男女。狭い世界。2分もせずに終わる世界。やりこみ要素なんてこれっぽっちもない。
だから、だ。こんなクソつまらない、誰も金を突っ込んでまでやらないゲームに向き合っている時だけ、俺は自分を解放できる。俺は自分を肯定できる。なんてつまらないゲームなのだと嘲りながら、架空の住民を無差別に殺戮すると、えも言われぬ快感が俺の脳味噌を包む。
このアーケードゲームは、童実野町のあちこちにあるゲームセンターの中でも、特に辺鄙で奥まった路地にある、マイナーな店に一台しかない。全国でもそこにしかない。そして俺は今日も、抑圧された労働から抜け出して、薄暗く湿ったそのゲームセンターに訪れた。
人と接する仕事なんてこれっぽっちも向いていないのに、無理矢理営業に回されてから数年たつ。思い出すだけで苛立ってくる。威張りん坊の上司も、冷酷な同僚も、無関心な部下も、どいつもこいつも大嫌いだ。殺してやる。殺してやる。
立地の悪さと、揃っているゲーム機のセンスがイマイチなせいか、いつもこの店は空いている。暇そうな主人を尻目に、俺は普段通りの道順で、一層奥まった場所に設置された、俺の世界へ向かった。俺が毎日通っているおかげで、埃のかぶっていないストールへ腰を下ろす。
始まる。始まるぞ。
一人、二人、三人。粗いドットのモブの顔が、俺を馬鹿にする人間たちの顔に変貌していく。俺にこれっぽっちも期待しなかった母の顔が。俺のことを、腫物でも触るかのように扱い、怯えた父の顔が。浮かんでは消え、消えては浮かび。俺は弾を乱射した。小さなピストルでも、俺の怒りがこもった弾丸は真っ直ぐに母の額を貫いた。
このゲームにただ一つ文句を言うとしたら、血だ。血が足りない。スタッフのプログラミング力が足りなかったせいか貧弱で最低限な演出しか無いため、敵を撃ち抜いても血の一滴すらこぼれない。もっと噴き出すような、鮮血を俺は見たい。無様に、あの夕焼けより真っ赤な血を流させてやりたい。この100秒だけは俺は無敵だった。
あっという間に、俺の世界は終わった。1プレイ20円の甘きひととき。俺はまたコインを入れ続行しようとしたが、突然尿意を催した。ここに来るまでに歩きながら飲んだ缶コーヒーの分だろうかと思いながら俺は立ち上がった。
レストルームから帰還すると、俺は目を疑った。
俺の聖域に、誰かがいる。
たった一台しか、ハイパーシューティングは稼働していない。そのたった一つの世界に、一人のガキが侵入していた。金のドぎついメッシュの前髪に、うねるような後ろ髪。ヘアスタイルはやんちゃだが、その顔つきは柔らかく少年の溌溂さと少女の繊細さが並存していた。スクリーンの赤い光が、ガキの丸い頬に照りついている。大きな瞳に、俺の世界が不躾にも映りこんでいた。
「き、キミ……」
俺はガキに近づいた。ガキはきょとんとした顔で俺を見上げた。小学生か中学生ってところだろうか。
「はい?」
「そ、それ、それ、どど、どうして」
ガキ相手なのに言葉を発することが怖くて、どもってしまう。自分への情けなさより、このガキへの憤怒が上回った。なんでこんなガキ相手に、俺がびくびくしなくちゃならないんだ。俺の世界に勝手に踏み込んできたのはコイツの方だ。俺は毅然と立ち向かわなければならない。
ガキは再び画面に視線を戻して、ボタンを連打しながら答えた。
「えへ、たまにここのお店に来るんですけど、こんな筐体があるなんて気づかなくって」
声質は確かに男のものだが、なよなよっとした女々しい語尾。
「いつもこんな奥まで見ないから。たまたま気になったから、やってみてるんです」
ガキはつらつらと言語を垂れ流しながら、人々を撃ち殺していった。初めてプレイしているとは信じられないほど、鮮やかな手さばきだった。キャラクター全員が望んで、自ら身を差し出しているようにすら思えた。このクソゲーに操作説明なんていうご丁寧なものはない。俺も何度かプレイしてようやく操作を覚えた。俺がトイレに行っている合間に、多く見積もっても2、3回しかプレイできないはず。そのたった数回ボタンとスティックをいじくっただけで、直感的に覚えたのだ。このガキ、どれだけゲームに慣れてやがるんだ。こんなパッとしないゲームセンターに来てる段階で、余程のギークだと分かる。蓄積された経験と、優れたセンス。
「あっ、終わっちゃった」
ガキが叩き出したスコアは、俺が今まで何度も何度も撃ち殺し塗り替えてきた俺のベストスコアより、高かった。今まで俺の名前しかいなかったランキングに、ふざけたゲストが君臨した。突如崩れた、世界。
「ン、このKILAさんって、もしかして貴方ですか?」
「あ、ああ……一応ね……毎日やってるから……」
「スゴイ! 大ファンなんですね」
ファン? そんな中途半端な呼び方を俺にするな。俺はこのゲームそのものだ。このゲームは俺の世界なんだ!
ガキはちんちくりんな体を椅子からずらした。野暮ったいリュックサックを背負うのを見て、俺はガキの腕をつい掴んだ。筋肉の少ない、赤ん坊の様な腕。
「ちょ、ちょっと、待って」
「うわ、エ、なんですか」
「キミ、まだ2、3回しかプレイしてないだろ。もう帰るのかよ」
「う、うん」
唖然とする俺に怪訝な顔をして、ガキはその場から離れた。起きているのだか寝ているのだか判然としない主人が、ガキの姿を確認すると嬉々として話しかけている。余ったプライズの巨大なぬいぐるみを、ガキに渡そうとしてガキを困惑させていた。
俺は、一気に無数の感情に襲われたまま、処理しきれずに固まっていた。
あのガキは、俺の世界に無断で侵入した。しかもそれだけにとどまらず、俺の世界を舐め腐ったように蹂躙して、とっとと立ち去った。まるで、この世界など価値がないとでも言うように。あの瞳。くりんくりんとした子供の瞳には、侮蔑の色が浮かんでいた。そうに違いない。このハイパーシューティング、ビックリするぐらいつまらないし、簡単すぎてやりがいもないなあ。そして、こんなゲームをやってるお前も、同じくらい、いやそれ以上につまらないよ、と言わんとしていた。
ガキが別のゲームをプレイしている音が聞こえる。耳障りなノイズ……。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
このゲームはそもそも、この最後の店からすら採算が取れず撤収されようとしていたところを、俺が店の主人に頼み込んで、俺が毎日通って金を使うことを条件に、残させたものだ。俺がこの世界を守っているのだ。俺こそがこのゲームに相応しい。お前などプレイする資格などないのに。スクリーンにはまだ、あいつが残した忌々しい数字が点滅している。汚された。俺の世界が異物に汚された。許してはならない。
報復だ! 俺の中で、抑圧された俺が叫んだ。
報復せよ! あの罪深き者に、聖なる弾丸を打ち込め。お前の世界を守れ。
俺は頷いた。未来のビジョンが目に浮かぶ。ガキの小さな身体から噴き出す血液が、俺を染めていく。
俺は例のガキの日常を観察した。童実野高校に通う1年。武藤遊戯。153センチ。祖父はゲーム屋を経営。ありふれた普通の少年だ。あまりに没個性的すぎて、腹が立つ。俺はこんなしょうもないガキにむきになっているのか。とにかく、ガキの毎日のおおまかなルーティーンは大体把握した。俺は右手に握ったピストルを睨んだ。オモチャなんかじゃない。本物だ。表ルートなんかじゃあ絶対に手に入らない。ダークウェブに存在する闇のマーケットで買った。俺は現実世界でも無敵でいられることを証明してやる。誰も俺を馬鹿になど出来ない。誰も俺の弾丸を止められない。
作戦決行日の夕暮れ。俺は大通りのファストフード店で、下校中の遊戯が通るのを待っていた。あいつと普段、常にべったりとつるんでいるお仲間たちは、この曜日にはバイトで毎週いなくなる。そして遊戯はこの店を通り過ぎた後、メインストリートから一本外れた道へと曲がっていく。その道自体はいくらか人通りがあるが、遊戯はさらにもう一本細道へ進む。ここが狙い時だ。初めっから細道で待ち伏せをしていると明らかに怪しまれるから、大通りから何気なく人ごみに紛れて後を追う。そして周りに誰もいなくなった瞬間、遊戯を捕まえる。近くには不良のたまり場と化していた廃工場がある。つい最近、警察のパトロールと補導の成果で、誰もいないもぬけの殻となったのだ。あまりに好都合。やはり俺は世界に選ばれている。そして、俺のこの試みはあまりにも呆気なく成功した。背後から突然ハンカチで口を塞がれ、驚いたように目を見開く遊戯は、一方的に嬲り殺される小動物よりか弱かった。
「グ……」
ハンカチに染み込ませておいた薬品の効果で気を失っていた遊戯が、ようやく目を覚ました。冷たい床に放り出された体が蠢く。遊戯は己の両腕に嵌められた手錠を視認すると、一気に状況を理解したようだった。
「なッ、これッ」
「うひひひひひっひィ~~~! おはよう遊戯クゥン。でもキミはすぐに眠ることになるよ。永遠にね……」
俺は天に向かって発砲した。威嚇の一発だ。遊戯が情けない悲鳴を上げた。声変わりしたってのに、女みたいな弱っちい声。
「空砲なんかじゃあねえぞ。モノホンの銃だぜ。俺のこと散々コケにしやがって、許さねえからな」
「な、なんのことっ!?」
「このガキィッ! まだしらばっくれるか! もともと決めてたが、さらに心に誓うぜ。絶対に撃ち殺してやるからな」
銃口を向けると、遊戯の顔から一瞬で血の気が引いた。本当に、サアッと血管から血が抜け出してしまったような音が聞こえた気がする。まずは一発、遊戯の足元の床に発射した。小気味よい音と共に、ざらついたコンクリの地面に銃弾がめり込む。あと20センチほど左へずれれば、遊戯の膝下に直撃していた。己の肉体を、鉛が抉り取る様を想像したのか、遊戯の両目から粒となって涙がこぼれだした。一粒一粒が塊となって、ぼとぼとと落ちていく。
「アヒャッ、ヒャヒャハ! 泣けよ、泣けよお~~~! えっへへ、ガキみたいに泣きじゃくれや! 泣いてごめんなさいって土下座したって、撃つけどなァ! どうせなら小便でも漏らせよ。もっと汚い面晒せや」
遊戯の額にピストルの発射口を押し付けた。恐怖と疑問でパンパンに膨れ上がった遊戯の心は、今にも張り裂けそうなはずだ。なんと気持ちいい。これが俺を馬鹿にした罪なのだ。俺にとってこんなガキ、あのゲームの敵とそう大差ない。ただ俺に殺され、俺を気持ちよくするだけのモブ!
俺はトリガーを引いた。とびっきりに大きな発砲音が廃工場に響く。衝撃で俺は目を閉じたが、確実に、確実に遊戯を撃ち殺した感覚があった。
「デヒャハヒャヒャヒャハハヒャ! おい! おい! どうだ! 俺の弾丸の味は! アハハ!」
俺は瞼を上げた。無様に倒れこみ息絶えた遊戯の姿を、早く見せてくれ!
しかし、俺の視界のどこにも遊戯の死体は無かった。
その代わり、ただ俺のことを見下ろす少年がいた。彼のどこまでもどこまでも果てしなく深淵な眼差しだけが、俺に降り注いでいた。
どうなっている? 俺は自分自身が、尻もちをついた状態であること、遊戯が仁王立ちで俺を見つめていることを、一つ間を置いて認識した。そしてもう一拍置いて、俺が貫いたのは遊戯の肉ではなく、俺自身の頭だったことを知覚した。
「ウ、ウガアアアアアアアアアアアア!!!」
恐ろしいほどの静寂の後、凄まじい熱が俺を蝕んだ。あまりに暴力的な苦しみ。思わず両手で頭を押さえたが、どこか粘ついた液体の感触のみが伝わった。
こ、これは、これは俺の血? 触れば触るほど、血が噴き出しているように、流れだす液体の量が増す。なんで、なんでだ? なんで? 俺は確かに遊戯に撃った。遊戯の頭を撃ち抜こうとした。それなのに。苦しすぎてうめき声すら上げられなくなってきた。これが撃たれる痛みなのか。どういう訳だ。何故俺が撃たれている。コイツ俺に一体何をした。駄目だ、傷口が熱い、苦しい。
俺を眺める遊戯の表情は、まるで別人のようだった。顔のパーツはこれっぽっちも変わっちゃいないはずなのに、醸し出す雰囲気が違う。おぞましい存在感。遊戯の瞳は、真っ赤な怒りと紫の闇で染まっていた。
「おいおい……伊達にあのゲームにハマってないだろ。プレイヤーが撃たれちゃ世話ないぜ……」
遊戯はさも面倒くさそうに、自分の前髪をくるくると指に巻き付けた。この、と声を上げようとした瞬間に、右の太ももに鋭い痛みが走る。神経が焼けつく。肉体が異常を察知するより早く、鮮血が俺の脚から噴き出した。
「グァッッッ!」
確実に撃たれている。鉛玉が俺の身体を貫く感覚がする。どうなっている? 遊戯は銃など持っていない。誰が俺を撃っている? 俺は自分が握りしめていたはずのピストルを探し必死に視線を彷徨わせたが、どこにも見当たらない。この空間には俺と遊戯しかいない。圧倒的強者と圧倒的弱者しかいない。怖い、怖い、怖いよ! 勝手に体が震え始める。痛いのは嫌だ、痛いのはもう嫌だよぉ!
「フフ……さっきまでの威勢はどうしたんだか……お前、そんなんだから異常性を恐れられて、家族にも距離を置かれたようだな……精神病院にでも突っ込まれそうになったか……当然さ……相棒も、こんなどうしようもないクズ以下の野郎に目を付けられて災難だったな……」
遊戯は笑っていた。掌の上で、何とか助かろうともがく様を笑っている。俺はさしずめ、奴を喜ばせるために踊る人形。役を演じきれば終わり。死ぬ。死ぬ。死ぬのか? 俺はここで。違う、違う、断じて違うぞ! 俺はこの夕暮れの中、ハイパーシューティングと同じ空の下、同じくつまらない町の風景をバックに、遊戯を撃ち殺すのだ。その為にこの舞台をセッティングしたのだ。俺こそが獣側。俺こそが踏みにじる側。断じて、断じてこんな風に、自分自身が惨めに虐げられるために、ここへ来たわけじゃないのに。
「ああっ、ううあっ、助けてくれぇ~~~!」
「アハハ! ここまでくるとギャグだぜ。見事な返り討ちだな」
「な、何でもする! 俺の金、全部やるから、許してくれっ、頼むっ」
しかし、無情にも今度は俺の左腕に衝撃が走った。また撃たれたのだ。今回は悲鳴すら出せない。
「そうだな……どうせなら失禁でもすれば……なんて、お前の台詞を使ってみたぜ。安心しろ、これ以上汚いものなんて見せられたら、俺も気分が下がるからな……」
遊戯が俺の胸を、思いっ切り踏みつけた。
「茶番はここまで」
足の裏全体で、俺の身体を潰す。
「バン!」
刹那。俺は自分の心臓が爆発したような心地がした。いや、比喩でも何でもなく、本当に弾け飛んだのか。俺の全身からあふれだす血が跳ね返ったのか、遊戯のまあるい頬にも赤黒い液体が付着していた。全て、全て、俺が望んだものすべて、叶わなかったのだ。俺は自分の世界を守ることも出来ず、残酷に撃ち抜かれ、最後は心臓への一発で死ぬのだ。掠れ消えていく俺の視界には、最後まで悪魔が映っていた。
天窓から星々が降り注ぐ部屋で、二人の少年が絡み合っていた。どちらも、全くもって同じ容貌、同じ四肢、同じ肉体。それぞれの瞳でまたたく煌めきの、僅かな特徴だけが二人の存在を区別していた。しかし、二人にとってお互いの区別など不要であったし無意味だった。二人は互いが互いそのものであり、二人で一人であり、一人で二人だった。二人は既に、溶け合い混ざり合っている。
「ねえ、ボク……」
どこか優しい瞳の少年が囁いた。片割れの、どこか鋭利な空気感を孕んだ少年が小さく答えた。
「なんだ」
「この間、君、また無茶したんでしょ……ボク、あの日の放課後の記憶がほとんどなくって……変だなって思ってたらさ、ボクの記憶がちょうど抜けてる日時が死亡推定時刻の、不審死の人が発見されたって、新聞の記事にちっちゃく載ってたよ……ねぇ」
優しげな少年の掌が、もう一人の胸の上を滑る。二人はベッドの上で寝そべり、愛を交わしていた。くすぐったそうに身をよじりながらも、もう一人の少年は自身をまさぐる手を掴むと、物欲しげな視線を片割れに向けた。
「クク……そんなどうでもいいことより、もっと今は大切なコトがあるんじゃないか……」
「……例えば?」
「そうだな……俺をもっと楽しませる、コト……とか」
挑発する少年に、もう片方の少年は曖昧に微笑みながら頷いてみせた。この部屋には二人の少年しか、いや、合わさった一人の少年しかいなかった。
もう一人のボクが表に出ている間は、ボクは記憶が欠落する。彼と記憶の共有は出来ない。彼と示し合わせて、脳内で意思疎通をすることは出来るが、表に出ている人格の方がそれを拒絶すれば、奥に隠れ潜んでいる方の人格は、現実での出来事に何ら干渉できず、また干渉されずに終わる。
どうにもこの町は治安がよろしくないようで、不良はもちろん犯罪者もどきもそこら中にはびこっている。ボクの気弱な態度が、加害者たちをおびき寄せるのだろうか。とにかくボクはガラの悪い人間に狙われやすい。もう一人のボクは、ボクがそういった連中に絡まれ巻き込まれるたびに、代わりに表へ出て対処してくれているようだった。あまり愉快な思い出ではないからか、もう一人のボクは何が起こったのか決して教えてくれない。それでも何となく、普段のニュースや周りの状況、そしておぼろげに伝わってくる彼の感情から察してしまうのだ。
彼は相手をとことん追い詰める。正確には、相手がしでかそうとした悪事の分だけ、彼もやり返す。今夜の彼はどこかいつもより興奮していた。前に彼と肌を重ねたのは一週間前。僕の記憶が抜けているのは三日前の日。
もしかして、殺しちゃったのかな?
もう一人のボクが襲ってきた相手を結果として死へと追いやることは、滅多にはないが珍しいことではない。ただ相手がボクのことを殺そうとしてきたから、代わりに殺してくれたのだ。殴り返したりするだけでなく実際に息の根を止めると、どうやら異様に交感神経が優位になるらしい。普段はこういった閨事を恥ずかしがって嫌がるのに、彼が誰かを殺した後にセックスをすると、むしろ僕よりも積極的になるのだ。僕としては照れ屋な彼も可愛いけど、声をこれっぽっちも我慢せずに喘ぐ彼も可愛いから、嬉しいことこの上ない。
ああ、ボク今、嬉しいなんて身勝手な事を。ボクも変わったかな。
初めて……初めて彼が誰かを殺してしまったって知った日は、ボク、怖くって怖くってたまらなかったのに。その時は確か、子供だけを狙って窒息させようとしてくる変質者が相手だったか。いくら実際に、死へと導いた当人はもう一人のボクだとしても、肉体を共有するボクらにとっては、それはボク自身も殺人に加担したことと同義だった。ショックと、これが明るみに出たらボクらはどうなるのかという不安。そして何より、あまりにもしょうもない人間を、わざわざ彼の美しい手を煩わせて殺させてしまったことに、申し訳なさと悔しさを感じた。
しかし、もう一人のボクは全てを見通して、ボクを暖かく抱きしめてくれた。
大丈夫、俺への恐怖心から気が狂って、自分で自分の首を絞めたんだ。俺が遊戯の身体で、わざわざ罪を犯すわけがないだろう。俺たちを邪魔する者は、俺たちの存在を前に、自ら耐えられなくなって死を選ぶのさ。まあ、まるで俺に嬲り殺されるような幻覚でも見て死んでいったとは思うがね……フフ、いくら解剖したって、こういう訳で不審死としか判断できない。あんなのは殺しに入らない。ゴミが勝手に燃えて消えたようなもの。気にすることも気に病むこともない。俺はただお前を守りたいだけだから──。
ボクは、もう一人のボクに自分の身体を埋め込みながら、ぼんやりと思った。
ボクたちはきっと誰よりも狂っている。冷静に考えなくても、ボクらはまるで悪魔そのものだ。でも……ボクにとっては彼は、この世界の何よりも尊く純粋な存在なのだ。
汗ばむ額にキスを落とすと、彼が不敵に口角を上げた。
「おいっ……動きが生ぬるいッ……ンっ……」
「はいはい……」
普段だったら顔を両腕で隠して、唇を噛み締めているのに。やっぱり興奮しているみたいだ。ああ、顔も思い出せない哀れな人。ただボクらの愛の営みの、一瞬のスパイスとなり果てた人。ごめんね。
「ねえ、ボク……」
「ンンッ……ハァ、ッ……遊戯、どうし、たんだ……」
「ボクたちって、友達……? こういうことしてるから、恋人……それとも家族……それとも……」
彼が噛みつくように、ボクの唇に唇を重ねた。獰猛な口づけ。
「関係性なんて何だっていいだろ……強いて言えば、俺と遊戯……それだけ……な」
どうやら彼には、どこまでも敵わないらしい。ボクは彼と舌を絡ませた。わざわざこういった行為をしなくても、ボクと彼は心も体も溶けきっているけれども。どこまでがボクで、どこからが彼か、なんて線引きには意味はない。どこまでもボクでありどこまでも彼だ。ああ、なんて熱く甘い夜なんだろう。ボクは自分と全く同じ顔に呟いた。
「だいすきだ……」